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吉岡彌生Q&A

Q:吉岡彌生の卒業した学校はどこですか?
A:済生学舎です。 長谷川泰が1876(明治9)年に東京の湯島に開いた、医術開業試験受験を目指す人々のための私立学校で、吉岡彌生は1889(明治22)年~1892(明治25)年まで在籍していました。1896(明治29)年~1897(明治30)年には、野口英世も通っていました。

医術開業試験前期試験合格記念写真
(1890年/向かって右が彌生)
Q:吉岡彌生は何番目の女性医師ですか?
A:27番目です。 明治になり、女性が医術開業試験を受けることができるようになって初めての合格者が荻野吟子で、1885(明治18)年のことでした。
彌生はそれから7年後の1892(明治25)年に合格しています。

荻野吟子(1885年)
Q:吉岡彌生は何科の医師ですか?
A:産科の医師です。 『妊娠と安産』(大日本雄弁会)などの一般向けの書籍も書いています。 ただ、どんな病気の患者も診ていたようで、『吉岡弥生伝』には、郷里で実父、鷲山養斎の医院を手伝っていた頃、魚の骨がのどに刺さった患者の手当てをしたことなどが記されています。
Q:吉岡彌生を知るにはどんな本がありますか?
A:いくつかの伝記が出ています。 お近くの書店や図書館で見つからない時には、大学史料室にお問い合わせ下さい。
■ 吉岡弥生女史伝記編纂委員会
『吉岡弥生伝』
(東京連合婦人会出版部 1941年)
*1998年日本図書センターから復刻版あり
■ 吉岡彌生『この十年間 續吉岡弥生伝』
(学風書院 1952年)
■ 高見君恵編『吉岡弥生』
(中央公論事業部 1960年)
■ 日野多香子『愛の天使をゆめにみて 女性のための医学校を作った吉岡弥生』
(PHP研究所 1985年)
*子ども向けです
■ 武田勝彦『吉岡彌生伝』
(大東町教育委員会 1991年)
*子ども向けです
■酒井シヅ編『愛と至誠に生きる 女医吉岡彌生の手紙』
(NTT出版 2005年)
■渡邊洋子『近代日本の女性専門職教育 生涯教育学習から見た東京女子医科大学創立者・吉岡彌生』
(明石書店 2014年)
Q:東京女子医学専門学校の制服はいつ制定されたのですか?
A:1920(大正9)年に制定されました。 当初はツーピースでしたが、1922(大正11)年にワンピース式の制服に改められました。冬服は紺地に白襟のワンピース、夏服はタックのほどこされた白いブラウスと紺のスカート。角帽と制服で颯爽と歩く東京女子医専生の姿は、当時の女学校生の憧れだったそうです。

厚生省・文部省の嘱託として欧米視察に出発する吉岡彌生と見送りの学生(1939年)
Q:女子医学専門学校は本学の他にもありましたか?
A:1925年に帝国女子医学薬学専門学校が、1928年には大阪女子高等医学専門学校が設立されました。 それぞれ、現在の東邦大学、関西医科大学となっています。戦時期には男性医師が戦地に赴くために国内の医師が不足がちになり、1943(昭和18)年以降、それを補うべく医学専門学校が急設されました。名古屋、岐阜、福島、山梨、北海道、秋田、高知、京都の各地に女子医学専門学校が開設されましたが、いずれも卒業生を出さないまま閉校、合併の道をたどりました。

夏季無料診療基金募集音楽会で挨拶する吉岡彌生と代表の学生(1932年頃)
Q:日本初の女性医学博士になったのは誰ですか?
A:宮川庚子(みやがわ かのえこ)で、本学の前身である東京女子医学専門学校を1922(大正10)年に卒業した人です。 1931年1月に、学位論文「邦人聴器形態学的研究」が東京帝国大学の審査を通過しました。ちなみに、日本で女性として初めて博士号を取得したのは、保井コノで、1927(昭和2)年に東京帝国大学より理学博士の学位を授与されました。
Q:医学専門学校時代の附属病院はどんな建物でしたか?
A:増田清(1888-1977)設計による十字放射型の「一号館」があり、1930年に竣工しました。 十字放射型の建物は窓を多く設けることができ、通風・採光に優れていました。「一号館」はその後建てられた「二号館」(病棟)や「臨床講堂」とも連結し、2003年に総合外来センターが稼動するまで外来機能を担い続けました。これらの建物は2016年に解体され、その跡地には新校舎が建築される予定です。

東京女子医学専門学校附属病院(1930年)

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