リレーションシップ

NHR(ナーシング・ヒューマン・リレーションシップ)

学年を超えた交流を通してコミュニケーション力を養う

5月、初夏をにおわす日差しの中、東京女子医科大学看護学部のキャンパスでは、1~3年生合同のユニークな授業が行われ、教室は明るい歓声に包まれた。

 

2・3年生によって会場設営が行われる。
掛川・大東キャンパスから1年生が到着。
掛川・大東キャンパスから1年生が到着。
2・3年生が1年生を支援
 女子医大看護学部のキャンパスは、新宿・河田町のほか静岡県掛川市にも大東キャンパスがあり、1年生全員が1年間、ここで学ぶ。このため、1年生は河田町キャンパスの先輩たちと交流する機会がほとんどない。
 そこで、学年縦断型カリキュラムの一つであるキャリア発達論の授業の一環として、1年生を大東キャンパスから河田町キャンパスに招き、2・3年生と交流するNHR(ナーシング・ヒューマン・リレーションシップ)というプログラムを数年前から実施している。
 NHRは、1~3年生が一緒になって同じ授業に臨むという極めてユニークなもので、大東キャンパスの1年生がこれからの学生生活を展望できるよう2・3年生が支援することを主眼としている。一堂に会した1~3年生は、各学年30人ずつで構成される3つのグループ(A・B・C)に分かれ、さらにグループごとに各学年2人ずつの6人が一つの班を形成。その班単位でディスカッションやゲームなどを行い、数時間を一緒に過ごす。
 これにより、1年生は積極的に意見や考えを述べて上級生と交流し、2年生は後輩へのアドバイスと先輩へのフォローの役割を果たし、3年生はリーダーシップを発揮して班をまとめプログラムを進行させていく。このように、同じ授業を行うといっても単に交流を図るだけでなく、1~3年生それぞれに学ぶ目標が設定されているのである。

※看護学部1年生については、静岡県掛川市の大東キャンパスにて教育を行っていますが、新校舎完成とともに、2020年4月から河田町キャンパス新校舎において、新カリキュラムのもと1学年から4学年まで一貫した教育を行います。お知らせ詳細はこちら>>

グループリーダーが授業の進行役
 学生主導で授業が行われるのもNHRの特徴の一つだ。4月になってすぐに3年生と2年生のNHR委員による運営会議が組織され、毎週ミーティングを開いてディスカッションのテーマやアイスブレーキング(ゲームなどのレクリエーション)の内容などについて検討が重ねられた。
 この間に2・3年生合同の授業が2度設けられ、5月11日の2回目の合同授業ではグループごとに分かれ、それぞれの会場を飾り付けるための準備作業が行われた。本番のNHRも、各グループのリーダーによる司会進行でプログラムが進められる。教員は最初と最後に挨拶するだけで、授業には口を挟まない。ほとんど学生任せなのもユニークな点だ。
 では、5月27日に行われたNHRの様子を追ってみよう。
 午前10時。第1校舎玄関ロビーに紺のポロシャツ姿のNHR委員が集合。委員長が挨拶し、それぞれの役割分担やスケジュールなどを最終確認し合う。委員は総勢24人。委員長とグループリーダーは3年生、副委員長とグループ副リーダーは2年生が務める。そのほか、委員は景品・会場係、プログラム・アンケート係、お弁当係などを担当。10時半、3つの教室に分散した委員たちが登校してきた学生の手を借りながら会場設営を始める。11時には弁当が業者から届けられた。
 
1年生を迎え入れ席に誘導。 ランチタイムの歓談で1年生の表情も和む。
1年生を迎え入れ席に誘導。
3年生と2年生に挟まれて1年生が席に着く。
3年生と2年生に挟まれて1年生が席に着く。 ランチタイムの歓談で1年生の表情も和む。

心のケアもできる看護師をめざす
 11時15分、2・3年生が班ごとに分かれて着席。各班のテーブルと椅子は3人ずつ向かい合って座るように設営され、真ん中の2つの椅子が1年生のために空けられる。グループリーダーがタイムスケジュールや注意事項を説明し、各テーブルには弁当と飲み物が配付された。
 11時50分、大東キャンパスの1年生を乗せたバスが到着。A・B・Cの3つのグループに分かれた1年生はそれぞれの会場へ移動し、2・3年生の拍手に迎えられて決められた席に着いた。
 12時15分、いよいよNHRがスタート。まずは班ごとに自己紹介しながらのランチタイムとなった。緊張ぎみだった1年生も、弁当を囲みながらの歓談で一気に表情が和んだ。
 ランチのあとはアイスブレーキング。グループごとに工夫を凝らしたビンゴゲームや歌詞による曲当てクイズなどで、1年生の緊張はさらにほぐれ、2・3年生とのコミュニケーションも促進された。そうした雰囲気の中、14時15分からグループディスカッションが始まった。テーマはAグループが「理想の将来像」、Bグループが「理想の看護師像と将来の展望」、Cグループが「卒業後のライフプラン」。各グループとも班ごとに活発な意見が交わされた。
 Bグループのある班の声を拾ってみよう。「中学生のときに病院で検査を受けた際、看護師さんが気持ちを和らげてくれました。私もそんな看護師をめざし、結婚と仕事を両立させて一生働くつもりです」(1年生)、「心のケアまでしっかりできる看護師になり、どこかの島に渡って休日には釣りを楽しみながら仕事をするのが夢です」(2年生)、「これからますますお年寄りが増えるので保健師の資格も取得し、地域に貢献していきたいと思っています」(3年生)。1年生もしっかりと自分の意見や考えを述べていた。
 15時からはディスカッションについての発表が行われた。各班のリーダー(3年生)が内容をまとめ、1班から順に紹介。「専門的な分野を学び、認定看護師をめざしたい」、「大学病院で技術を磨いてから地元へ帰ってそれを還元したい」、「ケアするだけでなくしっかりコミュニケーションがとれる看護師になりたい」「20代のうちに結婚して子育てが終わったらまた仕事に復帰したい」などの将来プランが披露された。
 
アイスブレーキングでコミュニケーションが一気に進む。 活発な意見が飛び交うグループディスカッション。
アイスブレーキングでコミュニケーションが一気に進む。 活発な意見が飛び交うグループディスカッション。

“組織で動く”ことを学ぶきっかけに
 その後、アンケートへの回答と教員の講評を経て、16時にNHRは閉会となった。ある1年生は、「とても楽しいひとときでした。先輩たちのおかげでいろいろな不安も払拭することができました」と笑顔で語る。委員を務めた2年生の1人は、「今年は盛り上げ役に徹しようと頑張りましたが、先輩たちの苦労がよく分かりました」という。同じ班の3年生は、「座が和むよう気を遣いながら、なんとかリーダーの役目を果たすことができました」とホッとした表情を見せる。
 最後に委員長を務めたKさんが、「NHRでは“組織で動く”ということを学べるのが最も意義深いと思います。横と縦がうまくつながって初めて組織として機能する。そういうことにみんなが気づいてくれたのではないでしょうか」と総括。
 そして副委員長を務めたMさんが、「もう少し先輩たちの力になれたのではないかという反省を生かし、来年は委員長として後輩を引っ張っていきたいですね」と抱負を語ってくれた。
 
ディスカッションの内容を発表。 NHR委員のみなさん。ハートマークのポロシャツ姿の2年生は来年の活躍が期待される。
ディスカッションの内容を発表。
キャンパスの中庭で帰途につく1年生にエールを送る。
帰途につく1年生にエールを送る。 NHR委員のみなさん。ハートマークのポロシャツ姿の2年生は来年の活躍が期待される。


NHRは“チーム医療”実践への一助となっています

東京女子医科大学看護学部 看護職生涯発達学 講師 草柳 かほる
草柳かほる講師
 

NHRは1~3年生が合同で行うキャリア発達論の授業の一つですが、こうしたプログラムはおそらく他大学の看護学部にはないと思います。女子医大らしさを象徴するキャリア教育といえるでしょう。合同授業でありながら、めざすべき目標は学年ごとに違っており、しかも企画運営を2・3年生のNHR委員を中心とした学生たちの自主性に任せているのも大きな特徴となっています。
 1~3年生合同の授業ですから、大人数をどのように動かし、組織していくかということに重点を置きながらプログラムを考え、その中で各学年が自分たちの役割を模索し、それをこなしていきます。これは、卒業してから“チーム医療”という組織の中で働くときに、必ず役に立つはずです。また、コミュニケーション力が要求される看護師としての基本姿勢を形成する一助にもなると思います。
 
「Sincere(シンシア)」6号(2016年7月発行)

日本初の医師 貫戸 朋子

難民キャンプでの医療活動を通じて政策の大切さを痛感しました

現在、多くの日本人医師や看護師が海外で医療・人道援助活動を行っているが、その先駆けとなったのが、1993年に日本人医師として初めて「国境なき医師団」の登録医となり、スリランカとボスニア・ヘルツェゴビナで医療活動に携わった貫戸朋子(かんと ともこ)さんである。

 私は小さい頃からスポーツが好きで、特にサッカーが得意でした。小学校の体育の時間にサッカーをやると、私が一番うまい。でも、当時サッカーは男子のスポーツとされ、地域のサッカークラブも女子を受け入れてくれませんでした。私は本を読むことも好きで、サッカーと同じくらい読書にも熱中しました。
 そんなわけで、大学への進路はスポーツ関係か文学系も考えましたが、医師をしていた父の影響もあり、医学部をめざすことにしました。父からは、「女性も経済的に自立しなければならない」と聞かされていましたので、「医師になれば自分で食べていけるだろう」と思い、両親のすすめもあって東京女子医大に進学しました。祖母は父方・母方とも高等教育を受けており、私が女子医大へ行くと報告すると「吉岡彌生のところだね。それはいい」と、とても喜んでくれました。とりわけ父方の祖母は、一人娘だったため東京へ行かせてもらえなかったこともあり、「私も吉岡彌生のところで学びたかった」といってくれたことが心に残っています。

すばらしい先生とすばらしい授業
 在学中は、女子医大出身の大先輩や他大学から来られた方々などすばらしい先生方に巡り会い、すばらしい授業を受けることができたのが大きな財産となっています。当時、日本心臓血圧研究所に“あんぱん会”というのがあり、朝早くから医師や学生が集まって、あんぱんを口にしながら名誉教授だった心臓外科の榊原仟(さかきばら・しげる)先生(1979年没)を囲んで症例検討会や勉強会を行っていました。私はこの“あんぱん会”が楽しみで、末席から榊原先生を見ているだけでワクワクしたものです。
 病理学の梶田昭先生(2001年没)からは基礎をしっかり身につけることの大切さを学び、病理学が大好きになりました。神経内科とは何かを教えていただいた丸山勝一先生(2009年没)、個性豊かな消化器外科の羽生富士夫先生(2010年没)の講義も、それぞれ人柄が伝わってくる印象深いものでした。物静かで周囲が敬意を払わずにはいられない消化器系の山田明義先生、インスリンの自己注射認可に尽力された糖尿病センターの初代所長・平田幸正先生(2014年没)もかけがえのない恩師です。
 のちに病院長を務められた腎移植の先駆けである東間紘(とうま・ひろし)先生(腎移植・血管外科学研究会顧問)は、患者さんを丁寧に診察するため、授業時間になってあわてて何も持たずに講義室へ駆け込んでこられるような方でした。東間先生からは「50~60代の女性で目に見えないような血尿が続いているときは、尿管がんの疑いがある」と教えられました。
 数年前、他病院の腎臓内科にかかっていた女性が婦人科の私のところに来られ、ずっと血尿が続いていることを知って尿管がんかもしれないと思い、調べてもらったところやはりそうでした。東間先生の授業が長い年月を経てよみがえり、たいへん役立ったわけです。

日本人初の国境なき医師団メンバー
 卒業後、京大医学部の婦人科学・産科学教室に入局し、8年間過ごしました。その当時、新聞で「国境なき医師団」というのを目にし、興味を引かれました。環境がまったく違う外国で、学んできた医療を生かしてみたいと考えていた私は、国境なき医師団のパリ本部を訪れました。そして、日本人初の登録医となってスリランカのマドゥという難民キャンプに派遣されることになりました。1993年のことです。

ボスニア・ヘルツェゴビナ スレブレニツァの小学校にて。
ボスニア・ヘルツェゴビナ スレブレニツァの小学校にて。

 スリランカは10年越しの内戦が続いていました。雨期になるとバケツの水をひっくり返したような雨がずっと降り続き、カビが生えて洗濯物は乾かない。戦闘は少なくなるものの、難民たちはうつ病をはじめさまざまな疾患に見舞われ、子どもたちも元気がなくなる。そんな環境に敢えて身を投じたわけですが、自分で決心して行ったわけですから後戻りはできません。スリランカでは6か月間、医療活動を行いました。
 帰国後、戦争に懲りたはずの欧州でなぜ紛争が起き、貧困や飢餓が生じているのかとの好奇心から、今度は志願してボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァという街へ行きました。この街は国連軍の保護下にあった安全地帯でしたが、いつ戦闘が起きてもおかしくない状況でした。そこに11か月間、滞在しました。

疫学と統計学を生かしていきたい
 国境なき医師団としての医療活動を通じて、いかに政策が重要であるかということを痛感しました。政策が
しっかりしていなければ、いくら現場で頑張っても何も変わらないと。そうした政策につながるような勉強をしたいと思い、ジョンズ・ホプキンス大学公衆衛生大学院へ留学し、疫学と統計学を学びました。そのときに学長夫妻から、「女子だけの医科大学が日本にあるのはすばらしい。アメリカにはもう残っていない。誇りを持って女子医大を死守してほしい」と激励されたことをとても嬉しく思いました。
 その後、女子医大の国際環境・熱帯医学教室に在籍中、NHKのテレビ番組「課外授業 ようこそ先輩」に出演する機会があり、「戦争を学ぶ 命を考える」というテーマで、母校(京都教育大学附属京都小学校)の6年生に国境なき医師団での経験を題材とした授業を行いました。1999年4月に放映されたこの番組は、その年の国際エミー賞を受賞しました。会場で審査員のおざなりではない拍手を目にしながら、いい番組は国境を越えて評価してもらえるのだと感激しました。
 私は人間が争うという環境の中でいろいろな経験をし、それを通じてできるだけ患者さんの負担を小さくする医療や充実した予防医療を提供することが重要だと考えています。そういう医療社会をめざし、疫学と統計学の基礎を学んだことも、これからの医療に役立てていきたいと思っています。
 
貫戸 朋子(産婦人科医)貫戸 朋子
1955年京都市生まれ。東京女子医科大学医学部卒業後、京都大学医学部婦人科学・産科学教室に入局。京都大学付属病院などを経て、1993年「国境なき医師団」の日本人医師第一号となり、スリランカとボスニア・ヘルツェゴビナで医療活動に従事。その後、米ジョンズ・ホプキンス大学公衆衛生大学院で修士課程修了。1999年、NHKテレビ「課外授業 ようこそ先輩」に出演。その模様は『国境なき医師団:貫戸朋子 別冊 課外授業 ようこそ先輩』に詳しく描かれている。同番組は国際エミー賞(子ども・青少年番組部門)を受賞した。著書に『「国境なき医師団」が行く』、共著に『NHK未来への提言 アーネスト・ダルコー エイズ救済のビジネスモデル』がある。
 

加齢黄斑変性の先進治療

加齢黄斑変性をはじめとする黄斑疾患の先進的な診断・治療に世界が注目!

 目の奥に位置する黄斑は、視力をつかさどる重要な部分であるが、以前は眼科医でさえ触れることのできない場所だった。この黄斑部の疾患に関する診療で、国内はもとより世界からも注目されているのが、東京女子医科大学病院の眼科である。
目の基本構造
加齢黄斑変性と診断されたビジネスマン
 IT関連の仕事をしているIさん(男性)は、2013年の夏頃からなんとなくモノが見づらいと感じるようになった。1年後、「明らかに異常をきたしている」と思い、都内にある自宅から最寄りの総合病院へ駆け込んだ。右目をつぶって新聞を目にしたとき、文字がにじんだような感じに見えたからだ。
 だが、検査をしてもはっきりとした診断は下されなかった。Iさんは再三再四、症状を訴え、検査を繰り返したところ、加齢黄斑変性の疑いがあるとのことで、その診療に定評のある女子医大病院を紹介された。
 2014年10月、女子医大病院で診察を受けたIさんは、やはり左目に加齢黄斑変性を発症していたことが判明。ただちに、眼球内に薬を注射する抗VEGF療法という治療が開始された。これによりIさんは、にじんだように見えていた部分がクリアになり、視力を回復させることができた。

 人間の目は小さいながら、非常に複雑で精巧なシステムを持つ器官である(イラスト参照)。光の情報は角膜から瞳孔、水晶体、硝子体を経て、眼球壁の内側にある網膜に投影され、その情報が視神経を通じて脳に伝えられることによって映像として認識される。カメラに例えると、水晶体がレンズ、網膜がフィルムの役割を果たしていることになる。
 網膜のほぼ中央に位置しているのが黄斑であり、モノの大きさや形、色、距離など光の情報のほとんどがここで識別される。つまり、視力をつかさどっているわけだ。したがって、黄斑部に異常が発生すると視力の低下を招く。黄斑部中央には、視力を決定づける最も重要な中心窩がある。この中心窩は直径0.5㎜にも満たない小さなくぼみだが、ここに異常をきたすとさらに深刻な視力の低下につながることになる。

60歳以上の失明原因のトップが加齢黄斑変性

加齢黄斑変性診療の第一人者、飯田知弘教授。
加齢黄斑変性診療の第一人者飯田知弘教授。

 加齢黄斑変性は、文字どおり加齢などによって黄斑部に異常が生じる病気である。目の病気といえば、白内障や緑内障などがよく知られているが、加齢黄斑変性も近年、認知度が高まりつつある。黄斑疾患の権威者である女子医大病院眼科の飯田知弘教授は次のように話す。
 「僕が眼科医になった30年前、日本ではまだ加齢黄斑変性がほとんど認識されていませんでした。病名も、黄斑部が円盤のようになることから“老人性円盤状黄斑変性”と呼ばれていたくらいです。ところが、欧米では加齢黄斑変性が失明の主な原因になっており、その診療が重要視されていました。僕はその当時から加齢黄斑変性と向き合い、啓発してきましたが、今のように広く認識されるようになったのはここ数年のことです」。
 実際、日本でも加齢黄斑変性が視覚障害の原因の第4位を占め、60歳以上の高齢者の失明原因では第1位となっている。患者数はすでに70万人超にのぼり、50歳以上の約60人に1人の割合で疾患が見られるという。
 発症要因は加齢のほか、食生活の欧米化や喫煙、目が太陽やパソコンの光線にさらされる機会の増加などがあげられる。冒頭のIさんも愛煙家で、1日13時間くらいパソコンに向かう生活を何年も続けてきた。そのうえ、スキューバダイビングのインストラクターとして人一倍、太陽光に接してきたという。Iさんは、「こうしたことが重なって、加齢とともに黄斑がダメージを受けたのでしょう」と自己分析する。


眼球注射療法の登場で治療成績が劇的に向上
 加齢黄斑変性には「滲出型」と「萎縮型」の2つのタイプがある。滲出型は、網膜の外側にある脈絡膜から異常な血管(新生血管)が発生して網膜側に伸びてくるタイプである。新生血管は非常にもろいため、血液や水分が滲出して黄斑が機能障害を起こし、発症すると視界の中心部が暗くなったり、ゆがんだり、ぼやけて見えるようになり、急速に症状が進行して視力が低下していく。日本人の加齢黄斑変性は、ほとんどがこのタイプである。一方、萎縮型は加齢とともに黄斑の組織が徐々に萎縮していくタイプで、欧米の白人に発症が多い。進行は緩やかだが、有効な治療法はまだ確立されていない。
 「1990年代前半にインドシアニングリーン蛍光眼底造影という検査が行えるようになってから、新生血管が検出できるようになり、加齢黄斑変性の診断がしやすくなりました。同時に、日本人の加齢黄斑変性の病像が欧米人のそれとは違うことが分かってきました。当然、治療法も違ってくるわけです」と飯田教授は振り返る。
 では、滲出型の加齢黄斑変性に対する治療法にはどのようなものがあるのだろうか。その歴史をたどってみよう。
 最初に行われたのは、レーザーを新生血管に照射して焼きつぶす「レーザー光凝固」という治療法だ。だが、この治療法は新生血管が中心窩に及んでいない場合に限られた。中心窩に及んでいる新生血管をレーザー
滲出型加齢黄斑変性の患部。網膜に浮腫が見られる。
滲出型加齢黄斑変性の患部。網膜に浮腫が見られる。
薬剤の注射による治療で浮腫が消失している。
薬剤の注射による治療で浮腫が消失している。
で焼くと、かえって見えなくなってしまうケースがあるからだ。次に、新生血管を摘出したり黄斑を移動するなどの手術の時代を経て、2004年から「光線力学的療法(PDT)」が導入された。これは、薬剤と弱いレーザーを併用して新生血管を破壊するという方法である。
 そして2008年から、Iさんも受けている「抗VEGF療法」の時代となった。VEGF(血管内皮増殖因子)は新生血管の発生や成長を促す物質であり、これを抑える抗VEGF薬を眼球に注射して新生血管を退縮させるという治療法である。
 「アメリカで2004年に発表された抗VEGF療法の治験成績が、あまりにも良かったのでびっくりしたものです。日本で抗VEGF療法を始めた当初は、『マクジェン』という薬を使っていましたが、『ルセンティス』という薬を使い始めた2009年から、治療成績が劇的に良くなりました。その意味で、抗VEGF療法が本格化したのは2009年からといってよいでしょう。さらに2012年からは『アイリーア』という薬が登場し、それまで抵抗性を示していたタイプの黄斑変性にも効くようになりまし
加齢黄斑変性の患者さんの眼球に薬剤注射をする治療。
加齢黄斑変性の患者さんの眼球に薬剤注射をする治療。
加齢黄斑変性の患者さんの眼球に薬剤注射をする治療。
た。症状の悪化を抑えるだけでなく、視力を改善させる効果もあることが大きいですね」と、飯田教授は抗VEGF療法のメリットを指摘する。

個々の患者さんの症状に応じた個別化治療を実践
 いくら視力の改善が期待できるといっても、眼球に薬を注射するとなると、おじけづいてしまう人がほとんどだろう。Iさんも、「目に注射をすると聞いたときは、恐怖感から正直、ビビりました」という。「覚悟を決めて治療に臨みましたが、麻酔が効いていて痛みはまったくなく、注射はあっというまに終わりました」と も。
 Iさんは2014年10月から15年1月まで毎月1回、それ以降は2か月に1回のペースで抗VEGF薬の注射を受けてきた。最初の注射で効果を実感したIさんは、3回目の注射で「視力が戻ってきた」と感じたとか。その後も順調な経過をたどっていることから、今後は注射のペースが3か月に1回になる予定だ。女子医大病院ではこのように、薬の効果を確認しながら個々の患者さんの症状に応じて注射の間隔を変える“個別化治療”を行っている。
 「眼球注射は何度やっても緊張しますが、抗VEGF療法に出会えたことはとてもラッキーでした。目が見えなくなる場合を想定していましたが、視力が回復したのですから…」と笑みを浮かべるIさんは、さらに言葉を続けて「加齢黄斑変性は早期発見が大事。片目でモノを見て変だと思ったら、すぐに検査を受けるべきです。発症しても抗VEGF療法という優れた治療法がありますから、決してあきらめないことです」と、同じ症状を持つ人たちへのアドバイスを語ってくれた。

眼底深部まで検査できる最先端の装置を活用
 現在、女子医大病院では加齢黄斑変性の患者さんのほとんどに抗VEGF薬による治療法を提供している。その実施件数は優に年間2,000件にも及ぶ。もちろんこの数は日本の病院の中でトップを行くものである。患者さんは首都圏のみならず、東北や中部、関西、さらに遠く山口県からも訪れてくる人がいるという。そういう人た
高解像度のOCT(光干渉断層計)による検査。精度の高い診断を可能としている。
高解像度のOCT(光干渉断層計)による検査。
ちの多くが紹介患者さんであることも大きな特徴だ。女子医大病院が加齢黄斑変性の診療で絶大な信頼を得ていることを物語っている。
 飯田教授は、「治療データは世界へ発信し、この分野の論文は欧米の学会誌にも掲載されるなど世界最高水準の研究成果をあげています」と胸を張る。
 加齢黄斑変性を含めた黄斑疾患の検査において、最先端のOCT(光干渉断層計)を駆使していることも特筆すべき点である。OCTは非侵襲的に眼底を検査できる装置で、日本では1997年から導入された。その第一号を使い始めたのが飯田教授にほかならない。飯田教授は、網膜だけでなく脈絡膜などの眼底深部まで診断できる高解像度OCTのプロトタイプ開発にも関わってきた。現在、女子医大病院ではこのプロトタイプを含め、最も進化したOCTを5台有しているが、これだけの台数を備えている病院はほかにはない。
 こうしたOCTは、前述した加齢黄斑変性患者さんの“個別化治療”にも大きく貢献している。抗VEGF薬の注射を行うごとに、その効果をOCTで繰り返し検査することにより、個々の患者さんに適した治療パターン(注射をする間隔)を見いだすことができるわけだ。
 高解像度OCTは、黄斑疾患の診断精度をより高めていることはいうまでもない。それらの診断データは黄斑疾患に関する研究成果とともに学会や欧文専門誌に報告され、世界中から注目を集めている。

黄斑疾患の外科的治療でも他の病院をリード
 女子医大病院西病棟Bの2階第4手術室。昨年10月下旬のある日、眼科専用のこの手術室で午前9時過ぎから数件の手術が行われた。最初の2件は白内障の手術。いずれも麻酔を打ってから手術が終わるまでの時間は20
黄斑円孔の手術前
黄斑円孔の手術前(上)と手術後(下)。
中心窩にできた穴(孔)がふさがっている。
黄斑円孔の手術後
分程度だった。
 10時50分過ぎ、3件目の手術患者さんが入室。76歳の男性で、病名は黄斑前膜。網膜の手前に膜が張り、黄斑がそれにさえぎられてモノがゆがんで見え、視力が低下する病気である。その膜を手術によって剥がすのだ。執刀するのは飯田教授。小さな眼球の深部にある膜を、一体どのように剥がすのか。しかも、その膜はわずか3~4ミクロン(1,000分の3~4㎜)の薄さだという。臨床実習のためスタッフと一緒に入室していた医学部の学生たちも興味津々の様子だ。
 室内に小田和正の澄んだ歌声がBGMとして流れる中、11時5分に手術がスタートした。眼球にメスを入れ、硝子体の切除と網膜に張り付いた膜を剥がすために、カッターと鑷子(ピンセット)、ライトガイドを通す小さな穴が3か所あけられる。腹腔鏡下手術と同じ要領といってよいだろう。そして、カッターが穴に入れられた。1分間に5,000回転という高速回転の
飯田教授の執刀による黄斑前膜の手術。
飯田教授の執刀による黄斑前膜の手術。
カッターが、硝子体の後部を削り取っていく。硝子体は切除しても、視覚に直接的な影響はないという。
 飯田教授の合図で、室内の照明が落とされた。いよいよ前膜を剥がす場面である。極薄の膜を丁寧に剥がしていくためには、患部がより鮮明に見えなくてはならない。周りの照明を暗くするのもうなずける。鑷子が穴に挿入され、前膜が剥がされ始めた。その様子がモニターに映し出され、病変が取り除かれていくのが実感として伝わってくる。
 ふと飯田教授の手許を見ると、鑷子を手にした指先はほとんど静止しているといってもよいほどの微妙な動きしかしていない。まさに“神ワザ”である。「そろそろ終わりますよ」と、局所麻酔の患者さんに飯田教授が声をかけ、手術が終了したのは11時40分。スタートしてからわずか35分しか経っていない。1時間以上はかかるだろうと思っていただけに、拍子抜けするほどの短時間にも驚嘆した。
 このように、女子医大病院の眼科は黄斑前膜や黄斑円孔(黄斑の中心窩に穴があき視力が低下する病気)などの黄斑疾患に対しても、高度な外科的治療を提供しているのである。

「Sincere(シンシア)」5号(2016年1月発行)

我が国屈指の実績

腎移植

圧倒的な症例数と治療実績で世界から高評価

 東京女子医科大学病院中央病棟2階の第6・第7手術室。生体腎移植は、室内を行き来できる2つの手術室が使用される。一方の手術室では腎臓提供者(ドナー)からの腎摘出、もう一方ではそれを受ける患者さん(レシピエント)への腎移植が行われる。
 5月某日、50代の男性患者さんへの生体腎移植が実施された。ドナーは親族の60代の男性。午前9時15分、第6手術室においてドナーからの腎臓摘出が腹腔鏡下手術によって始まった。そして、1時間半後の10時45分に腎臓を摘出。179gの決して小さくはない腎臓を、開腹せずに摘出する腹腔鏡下手術のみごとな技を目の当たりにした。

 
  ドナーから摘出されたばかりの腎臓。         腎臓摘出は腹腔鏡下手術によって行われる。
 
 摘出された腎臓はただちに隣の第7手術室へ持ち運ばれ、移植するための処置が施された。11時、すでに開腹されていた患者さんの右下腹部への腎移植がスタート。40分後に腎動脈の吻合が終わり、その後、尿管を膀胱につないで手術が完了したのは午後1時前だった。腎臓摘出から移植までに要した時間はざっと3時間半。想像していたよりもはるかに短いものだった。
 腎移植は、末期腎不全の唯一の根本治療法といえるものだ。親や兄弟姉妹などの血縁者、配偶者から腎臓の提供を受けて移植するのが生体腎移植である。腎臓は1人に2つあり、1つになっても機能には問題がないため、1つを摘出して患者さんへ移植することが可能なのだ。一方、脳死または心肺停止となった人から腎臓の提供を受けて移植するのが献体腎移植である。さらに、腫瘍や結石などの病変を持つ腎臓を体外に取り出し、再建して再び体内に戻す自家腎移植もあるが、この移植例はそれほど多くはない。
 現在、我が国には約31万人の腎不全患者さんが透析療法を受けている。このうち、腎移植を受けたいと願っている患者さんは1万数千人を数える。
だが、実際の腎移植件数は年間約1,600件。透析患者さんのおよそ200人に1人という割合だ。また、このうち献体腎移植の件数はわずか200件にすぎない。臓器の提供があまりにも少ないからだ。腎臓病総合医療センター泌尿器科の田邉一成教授(女子医大病院・病院長)は次のように話す。
 「アメリカでは生体・献体合わせて年間約1万7,000件の腎移植が行われています。日本はアメリカの3分の1の人口ですから、その比率でいけば年間5,000件の腎移植があってもいいはずです。仮に献体ドナーが1,000人出れば、移植できる腎臓が2,000個になりますから、生体と合わせて年間3,500人くらいの患者さんが腎移植を受けることができる計算になります」
泌尿器科の田邊一成教授(女子医大病院・病院長)。

 女子医大病院が最初に腎移植を行ったのは、今から44年前の1971年である。その後、東間紘教授が腎移植術の確固とした基盤を築き、2006年からそれを受け継いだ田邉教授がさらに進化・発展させ、女子医大病院を世界有数の腎移植施設として広く知らしめるに至っている。
 「我々は年間約100件の腎移植手術を行っていますが、我が国の病院の中ではもちろんトップです。また、治療成績を表す10年生着率は95%で、世界でも断トツです」と田邉教授は胸を張る。
 さらに、血液不適合移植に先鞭をつけたのも女子医大病院である。主に夫婦間で行われる血液不適合移植は、腎移植全体の約3割を占めるが、その生着率も90%超と高く、症例数・治療成績とも世界を大きくリードしている。
 こうしたことから、泌尿器科には世界各国から研修や見学のために訪れる医療スタッフが引きも切らない。このため、科内のカンファレンスは英語で行っており、外国人からは大いに感謝されているとのことだ。











英語で行われているカンファレンス

腎がん

群を抜く手術件数で他の病院を大きくリード
 
 女子医大病院は“腎がんに強い病院”としても知られる。
 腎がんの手術件数は年間約270件にのぼるが、この数字は日本の病院の中で群を抜くものである。第2位の病院の年間手術件数が100件強であることからも、突出していることが分かる。単に手術件数が多いというだけでなく、早期の腎がんや小径の腎がんの場合は、腫瘍とその周辺のみを切除する「部分切除術」を推進していることも特徴だ。ちなみに、過去3年間の部分切除術の割合は60%超となっている。また、腹腔鏡下手術を積極的に取り入れ、患者さんの負担を少なくする低侵襲化も進めている。腎臓全摘手術においても、ここ数年は開腹手術より腹腔鏡下手術のほうが多い。
 さらに、2013(平成25)年からは手術支援ロボット「ダビンチサージカルシステム」(以下ダビンチ)を駆使した部分切除術が行われるようになった。同年のダビンチによる手術件数は34件だったが、昨年は75件へと倍以上増加した。まだ医療費が保険適用の対象になっていないため患者さんの費用負担は大きいが、手術を待ち望んでいる患者さんが少なくないためコンスタントに週2~3回のペースでダビンチによる手術を行っており、今年は100件の大台を突破してくるのは間違いない。
保険が適用されるようになれば、ダビンチによる腎がんの部分切除術はさらに増えてくるだろう。
  
前立腺がん

ロボットによる手術の推進で良好な成績を実現

 心地よいポップスのBGMが小さく流れる中、ときおり「カシャ、カシャ」という軽快な音が鳴り響く。ここは中央病棟2階のダビンチが設置されている手術室。青森からやってきた前立腺がん患者さんの手術が行われているところだ。「カシャ、カシャ」という音は、ロボットアームを操作するコンソールの足元のペダルを操作したときに発せられるものである。患者さんの腹部に開けられた穴には3Dカメラと手術用鉗子が挿入され、コンソールに座った田邉教授が3D画像を見ながらロボットアームを遠隔操作する。田邉教授はダビンチ手術の先駆者でもある。
 モニターに映し出された鮮明な画像を目にすると、患部が正確に切除されていくのが見てとれる。まるでオペレーターが患者さんの体の中に入り込んで手術を行っているような錯覚を覚える。通常、ダビンチによる前立腺がん手術は1.5~2時間で終わるが、この日の患者さんはリンパ節の切除も行ったため手術時間は3時間を要した。
 女子医大病院にダビンチが導入されたのは2011(平成23)年。その年の8月に前立腺全摘術の一例目が行われ、これまでのダビンチによる手術件数は約250件を数える。田邉教授とともにダビンチ手術の指導的立場にある飯塚淳平助教は、「今では前立腺がん手術のほぼすべてをダビンチによって行っています。おおむね週2回のペースで行い、年間の手術件数は80件程度となっています」という。
 ダビンチは腹腔鏡を発展させたものといえるが、腹腔鏡による手術は全般的に出血が少なく、術後の回復が早いというメリットがある。出血量は開腹手術の1~2割にすぎないという。加えてダビンチは、「ロボットアームの手術用鉗子先端部を細かく動かすことができるうえ、手ぶれを自動的に補正する機能もあるため、より精緻な手術操作が可能です」と飯塚助教は指摘。さらに、「これまでの症例はいずれも術後の経過が良好で、手術の成績は従来の方法に比べてダビンチのほうが良いという結果が出ています」とのことだ。
ダビンチ手術の熟達者・飯塚淳平助教。
 
「Sincere(シンシア)」4号(2015年7月発行)

ロールモデル実習

女性医師のロールモデル実習
先輩の働く姿に接して将来のライフプランを考える
 
東京女子医科大学の卒業生は全国各地の医療施設で活躍している。
医学部の学生がそうした先輩たちに接すれば、自分の将来をより具体的にイメージすることができる。
それを実践する機会が、「女性医師のロールモデル実習」である。
 

自ら実習先を決めてアプローチ
 「女性医師のロールモデル実習」は医学部3年生を対象に、毎年夏季休暇中に行われる。人間関係教育の一環として組まれているプログラムで、学生が地域医療に従事している先輩女性医師を訪れ、医療の場における患者さんとの接し方や対話、診療の様子などの見学を通して、医師の役割やプロフェッショナリズムについての“気づき”を得るとともに、女性医師のライフサイクルを理解して将来のキャリア開発に役立てることをめざしている。
 このプログラムを担当している岩﨑直子准教授(第三内科学・糖尿病センター)は、「女性医師として活躍している先生方と接することにより、医師という仕事のやりがい、コミュニケーションの重要性に気づき、キャリアプランを考え始めてほしいと思います」という。
 学生を受け入れてくれる医療施設は全国各地に点在している。夏季休暇に帰省する学生が、その地域の医療施設を実習先とするケースが少なくないからだ。実習先の医療施設はボランティアで学生を受け入れているが、こうした先輩女性医師の積極的な協力があるのも、このプログラムの見逃せない特徴である。
 学生たちは実習を希望する医療施設に対し、自らアプローチして受け入れの依頼を行う。受入先の女性医師は実習が終わると、いろいろな角度から実習生を評価するが、このアプローチの仕方も評価ポイントの一つとなっている。
 では、昨年の夏季休暇に行われた実習のうち、都内2つのケースを追ってみることにしよう。1つは4人の学生が参加した三軒茶屋病院(世田谷区三軒茶屋)、もう1つは下平レディスクリニック(杉並区高円寺南)での実習である。

盛りだくさんな内容のプログラム
 三軒茶屋病院は内科と腎臓内科に特化した比較的大きな病院である。院長の大坪由里子氏は1997(平成9)年に女子医大を卒業後、女子医大病院腎臓病総合医療センター内科に入局。そこでご主人の大坪茂氏(東都三軒茶屋クリニック院長)と知り合って結婚。3人の子どもを育てながら地域医療に尽力し、2011(平成23)年に院長に就任した。
 義母である大坪公子名誉院長も女子医大出身で、ロールモデル実習にはいち早く賛同している。したがって、二代続けて実習生を受け入れているわけだ。病院を運営している医療法人社団大坪会は、都内をはじめ関東一円にさまざまな医療関連施設を擁している。そうした施設の見学や多くの女性医師との交流、さらに大坪茂氏による「女医と結婚して」というユニークな講話まで組み込まれているのが、実習プログラムの大きな特徴だ。
 2日間の実習の初日、午前9時半に三軒茶屋病院を訪れた4人の学生たちは、まず大坪院長と面談。実習内容とタイムスケジュールについて大坪院長が説明し、「みなさんに幸せになってほしいからロールモデル実習を引き受けています。生き方や考え方の違ういろいろな女性医師と接する中から、そのヒントをつかんでください」と挨拶した。
 午前中は女子医大出身の伴野麻悠子医師、坂東美和医師とそれぞれ懇談。伴野医師は目下子育て中で、週に4日間、午前9時から午後5時45分までの勤務である。「子育て中も働き続けたいと希望していたところ、大坪院長が快く受け入れてくださいました。院長からは子育て中の働き方や家事のノウハウをたくさん学んでいます」という伴野医師の言葉は、実習生たちの将来に対する漠然とした不安を拭うものだったようだ。

 
子育て中の伴野医師に従って院内を見学。
 坂東医師は結婚後、外交官夫人となって海外へ渡ったため、1年間医師の仕事から遠ざかったことがある。そうした経験談と、「患者さんと接するときは五感を駆使してより多くの情報をつかむことが大切。そうすれば自ずと次の手を早く打つことができます」という話に、実習生たちは興味深く耳を傾けていた。

仕事と家庭を両立できることを確認
 午後は2015(平成27)年秋にオープンした関連施設・東都三軒茶屋クリニックへ移動し、40台のベッドサイドコンソールを備えた最新鋭の人工透析施設を見学。ホテルのようなアプローチとロビー、明るく清潔感あふれる透析室などに、実習生たちは一様に目を見張っていた。
 見学後、透析担当の加藤麻衣医師と懇談。加藤医師は女子医大出身ではないが、2人目を妊娠中でまもなく産休に入るとのこと。「産休・育休で仕事から離れると復職できないのではないかと不安でしたが、ここは定時勤務で仕事と家庭を両立できる職場です。子どもができても仕事を続けられる環境が整った施設が増えつつありますから、みなさんも心配せずに婚期を逃さないでください」というアドバイスに、一同笑顔でうなずいていた。
 次は大坪茂氏の「女医と結婚して」という講話。「妻が院長になるほどバリバリ仕事をするとは思っていませんでした。家事もこなしてくれて、何もしない私は妻に頭が上がりません」という話は実習生の笑いを誘い、結婚観を考える一助となったようである。
 実習2日目も、午前中は三軒茶屋病院の2人の女性医師と懇談しながら病棟内を見学。午後は医薬品メーカーによる薬品説明会に出席したあと、千代田区紀尾井町のホテルニューオータニ内にある関連施設・東都クリニックを訪れた。
 人間ドックを主体とした快適な院内を見学後、皮膚科の竹内瑞恵医師の診察場面に立ち会った。竹内医師は大坪由里子氏と同期生。「一生診療に関わっていけるのではないかと思い、皮膚科医の道を選びました」という竹内医師の話は、実習生たちの参考となったに違いない。

 
東都クリニックの皮膚科・竹内医師の診察の模様を見学。
 実習を終えた4人の学生からは、「1人の女性医師に付いて回るのをイメージしていましたが、たくさんの先輩の話が聞けてとても充実した実習でした」(T.N.)、「どの先生も自分のスタイルを持っていて、ポジティブに仕事をされているのが強く印象に残りました」(M.S.)、「大坪院長は楽しそうに仕事をされていて、器の大きさを感じました。私も大いに見習いたいと思います」(S.S.)、「結婚して出産すると復帰が難しいと思っていましたが、それを支援する環境が整っているところがあるのを知って希望が持てました」(M.F.)といった感想が聞かれた。
 

患者さんと医師の距離の近さを実感
 一方、下平レディスクリニックでは、K.Y.さんが中島由美子院長からマンツーマンで実習を受けた。同クリニックは中島院長の父親が開業(当初は下平クリニック)した医院で、現在は婦人科を専門としている。
 中島院長は1982(昭和57)年に女子医大を、86(同61)年に同大大学院を卒業後、女子医大病院や同第二病院(現・東医療センター)、至誠会第二病院などに勤務。そして95(平成7)年に下平クリニックに転じ、2004(平成16)年から改称した下平レディスクリニックの院長を務めている。
 同クリニックを実習先に選んだYさんは、その理由について「母が院長先生を信頼し、理想の女性医師と評しているからです。検診で子宮がんを疑われた母が中島先生の診察を受け、子宮がんではないときっぱり診断されたのです」と説明する。女子医大を卒業し、現在糖尿病センターの内科医として勤務しているYさんの姉も、ロールモデル実習で中島院長にお世話になったとのことだ。
 2日間、中島院長に付き添って診療の様子を見学したYさんは、「先生が患者さんにやさしい笑顔で接しながら話を

下平レディスクリニック・中島由美子院長の診察に立ち会う。
傾聴されている姿がとても印象的でした。地域の“かかりつけ医”として信頼されているのがよく伝わってきました」という。また、「女性の苦しみや悩みを和らげ、救ってあげられる医師になりたいという思いが、実習を通してさらに強くなりました。結婚と出産を見据えたライフプランを考えるうえでも、先生は理想のロールモデルでした」と振り返る。
 「私は時間をかけて患者さんの希望を聞き、一緒に治療方針を決めるようにしています。そこが病院との違いであり、患者さんとの距離が近いといわれるゆえんでもあります。Yさんがそのことに気づいてくれたら幸いです」
 そう語る中島院長はYさんについて、「礼儀正しく、一生懸命実習に取り組んでいました。医師は患者さんに笑顔で接することが大事ですが、Yさんはなによりも笑顔が素敵です。きっと、誰からも好かれる女性医師になってくれるでしょう」と評してくれた。
 
「Sincere(シンシア)」7号(2017年1月発行)

心臓病治療で国際貢献

ミャンマーの子供たちに笑顔を! 心臓病治療で国際貢献

本学は国立循環器病研究センター、NPO法人ジャパンハート、そして「明美ちゃん基金」とともに心臓病で苦しむミャンマーの子供たちを救うための医療支援プロジェクトに参加します。


 
(今回の事業で支援先となる国立ヤンキンこども病院)

(1)医療支援プロジェクト

ミャンマーは軍事政権から民主主義政体への転換に伴い、経済発展が注目されていますが、医療については依然発展途上にあります。特に先天性心疾患の分野については専門医がほとんどおらず、通常であれば治療が行われるような小児の患者でも、その多くが医療を受けることできない状態です。こうした現状から、「明美ちゃん基金」を活用することで、ミャンマーにおける先天性心疾患を専門とする医療スタッフの育成を行い、医療水準の向上を図るのがこのプロジェクトです。

具体的には、現地の患者への診療行為を通じてミャンマーの医療スタッフの教育を行うことと、医療スタッフを日本に招いて教育することの二本立てになっています。内科系は中西敏雄前循環器小児科教授をはじめとした本学の医師を中心に、小児心臓外科については市川肇国立循環器病研究センター小児心臓外科部長を中心に担当していくことになっています。事業期間は5年で、研修施設はミャンマーでは国立ヤンキンこども病院、日本では東京女子医科大学病院と国立循環器病研究センターとなる予定です。
 

(国立ヤンキンこども病院の手術室を視察する中西敏雄・前東京女子医大循環器小児科教授(中央))

  国立ヤンキンこども病院はミャンマーの小児病院で唯一の心臓病手術室を備える小児循環器治療の中心的施設ですが、技術的には体重10kg以下のこどもの手術は難しく、経験にも乏しい状態です。単に医療を提供するだけでなく、ミャンマーの医師が自らこどもたちの命を救えるよう、人材育成を行う必要があると判断され、今回のプロジェクトがスタートすることになりました。

(2)「明美ちゃん基金」とは?

今回のプロジェクト推進に伴う医療費、研修費、渡航費、宿泊費等の費用は、全額が「明美ちゃん基金」から支払われます。「明美ちゃん基金」とはいったいどのようなものなのでしょうか。
明美ちゃん基金は、先天性心臓病などに苦しみながら経済的な事情で手術を受けることができない子供たちを救うため、産経新聞社が提唱して設立された基金で、活動資金はすべて読者を中心とする一般の人たちからの寄託金で賄われています。50年近くにわたり、100人を超える幼い命を救ってきました。

基金のはじまり

1966年(昭和41年)、1通の投書がきっかけになり、産経新聞に鹿児島在住の5歳の女児、明美ちゃんの記事が載りました。心室中隔欠損症があり、手術費用は50万円、現在の約 500万円相当でした。 当時は現在のようなさまざまな医療費助成がない時代で、家族にとって高額すぎる費用でした。 家族の「貧しいが故に死なねばならぬか」という訴えが記事になりました。 記事は反響を呼び、1週間後には全国からの寄付が420件、425万円余りに達したといいます。手術は1966年、当時心臓病の世界的権威といわれた本学附属心臓血圧研究所所長 榊原仟教授の執刀の下で行われ、成功しました。産経新聞社が、明美ちゃんの両親や榊原教授らと協議し、心臓病の子供を救う基金として「明美ちゃん基金」を設立しました。その後、同じような患者さんに「明美ちゃん基金」が適用され、心臓病の子供たちが手術を受けることができました。

 
(榊原教授と握手をしている明美ちゃん。右端は循環器小児科 高尾篤良教授(産経新聞社 提供))

基金の発展

「明美ちゃん基金」の報道がきっかけとなり、厚生省(当時)が1967年から育成医療費を増額し、心臓病を支給対象に含めるなど、心臓手術の医療費は健康 保険や公的扶助でほぼカバーされるようになりました。国内で対策が進むにつれ、基金は発展途上国の子供たちを救うために使われるようになりました。ネパール、韓国、カンボジア、マレーシア、ラオス、ペルーなど多数の国の子供に適用され、日本で手術を受ける援助をしています。手術を受けたインドネシアの子供が、成人した後アメリカで事業を興して成功し、最近基金に寄付したこともあります。ペルーの子供は、病院まで歩いて数日かかる村から来ました。フジモリ大統領時代で、退院時には東京のペルー大使館でパーティが開かれ、女子医大関係者も招待されました。


 (明美ちゃん基金の適用を受けて来日したペルーの少女(産経新聞社 提供))

基金には、今なお日本全国からの寄付が続いています。中学生の小遣いからと思われる少額のものもあれば、有志の方の高額のものもあるようです。基金は、心臓手術の援助のほか、学術講演会の後援にも使われています。


今回の事業では、現地の子供たちを治療するだけではなく、医療行為を通じた現地医療関係者に対する教育を支援の柱に据え、ミャンマーにおける小児循環器の医療レベルを向上し、先天性心疾患の子供たちを治療できる専門医をはじめとした医療関係者の養成を目指します。心臓病に苦しむこどもたちの笑顔を取り戻すため、本学は新たな一歩を踏み出します。

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「明美ちゃん基金」への振り込みは、みずほ銀行東京中央支店(店番号110)普通預金口座567941「産経新聞社会部明美ちゃん基金」。郵送の場合は、現金書留で〒100―8077 産経新聞東京本社社会部「明美ちゃん基金」。
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