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2016年10月20日ありがとう一号館~85年の歴史~
惜しまれつつ幕を閉じた85年の歴史を振り返る
東京女子医科大学を象徴する建物として親しまれてきた一号館。
隣接の二号館・臨床講堂とともに85年におよぶ役割を終え、新校舎棟として甦るべく建て替え工事が始まった。
そこで、女子医大関係者の心の支えとなってきた由緒ある歴史的建造物・一号館を振り返ってみよう。
◆昭和の名建築家・増田清が設計
1930(昭和5)年に建設された一号館は、建築家・増田清の設計による建物である。増田は1913(大正2)年に東京帝国大学工学部建築学科を卒業。恩師の佐野利器は耐震を重視した建築構造の専門家で、増田が鉄筋コンクリート造の建物を数多く設計するようになったのは、佐野の影響が大きいとされる。増田は卒業後も佐野の指導の下、内務大臣官邸の設計などに従事。その後、安藤組大阪支店や大阪府土木課を経て独立し、大阪や広島で学校をはじめとする建造物の設計を数多く手がけた。
明治以降、日本の洋風建築はレンガ造りが主流であったが、増田は日本の近代化に鉄筋コンクリート造の建物が不可欠と考え、その普及に力を注いだ。特に大阪では、「増田清なしに鉄筋コンクリート建設は語れない」といわれたほど、その名をとどろかせた。現存する増田作品には、国の登録有形文化財に指定されている大阪市の三木楽器本社社屋や、原爆に耐えた広島市平和記念公園レストハウス(旧大正屋呉服店)などがある。
増田が独立したのは、1923(大正12)年に発生した関東大震災の翌年で、鉄筋コンクリート造への関心が大きく高まっていた時期であった。そうした中、一号館は東京女子医学専門学校附属病院として建てられた。当時、女子医専の副校長だった吉岡正明の母校である大阪府立医科大学(現在の大阪大学医学部)の病院も増田の設計であり、そのほかにも増田は病院設計で名声を得ていた。そうした実績を踏まえて、増田に設計を委ねたものと思われる。増田は一号館に続き、二号館と臨床講堂の設計にも携わることとなった。
◆機能的で合理的な十字放射型プラン
増田は、耐震性に優れた鉄筋コンクリート構造を基本に、機能的で合理的な設計を得意とした建築家だった。一号館では日本で初めての「十字放射型病院建築」プランを提案。十字放射型プランは、①壁面が多いため多くの窓が設置でき採光や風通しがよい、②エレベーターを用いた効率のよい動線計画が可能、③交差部から各病室への目配りがしやすい、④増築がしやすい、などのメリットがある。
この日本初の病院建築プランについて、創立者の吉岡彌生は伝記の中で「学校の附属病院は、暗い冷たい部屋が一つもないように、理想的な病院をつくりたいと思いまして、十字形放射状という面白い設計を選んでみました」と述べている。
増田は優れたデザイナーでもあった。一号館の外壁は、細かい溝が印象的なスクラッチタイルを基本とした全面タイル張りである。大正・昭和のモダン建築を象徴するこの手法は、その後の世界恐慌や戦時体制などで採用が難しくなり、古き良き時代をしのばせるノスタルジックなデザインとして近年に至るまで評判を呼んだ。
正面玄関の庇の中央部には、校章をモチーフとしたテラコッタ(素焼きタイル)製のレリーフを配置。その周りや入口周辺には、波や丸い突起などの意匠を凝らしたタイルが用いられ、落ち着いた中にも軽やかさを感じさせる工夫がなされていた。
一号館・二号館・臨床講堂は、85年の歴史に幕を下ろした。しかし、ここで学び、教え、医療に専念した人々の熱い思いは、跡地に建設が予定されている新校舎棟に受け継がれていくに違いない。
東京女子医科大学を象徴する建物として親しまれてきた一号館。
隣接の二号館・臨床講堂とともに85年におよぶ役割を終え、新校舎棟として甦るべく建て替え工事が始まった。
そこで、女子医大関係者の心の支えとなってきた由緒ある歴史的建造物・一号館を振り返ってみよう。
◆昭和の名建築家・増田清が設計
1930(昭和5)年に建設された一号館は、建築家・増田清の設計による建物である。増田は1913(大正2)年に東京帝国大学工学部建築学科を卒業。恩師の佐野利器は耐震を重視した建築構造の専門家で、増田が鉄筋コンクリート造の建物を数多く設計するようになったのは、佐野の影響が大きいとされる。増田は卒業後も佐野の指導の下、内務大臣官邸の設計などに従事。その後、安藤組大阪支店や大阪府土木課を経て独立し、大阪や広島で学校をはじめとする建造物の設計を数多く手がけた。
明治以降、日本の洋風建築はレンガ造りが主流であったが、増田は日本の近代化に鉄筋コンクリート造の建物が不可欠と考え、その普及に力を注いだ。特に大阪では、「増田清なしに鉄筋コンクリート建設は語れない」といわれたほど、その名をとどろかせた。現存する増田作品には、国の登録有形文化財に指定されている大阪市の三木楽器本社社屋や、原爆に耐えた広島市平和記念公園レストハウス(旧大正屋呉服店)などがある。
増田が独立したのは、1923(大正12)年に発生した関東大震災の翌年で、鉄筋コンクリート造への関心が大きく高まっていた時期であった。そうした中、一号館は東京女子医学専門学校附属病院として建てられた。当時、女子医専の副校長だった吉岡正明の母校である大阪府立医科大学(現在の大阪大学医学部)の病院も増田の設計であり、そのほかにも増田は病院設計で名声を得ていた。そうした実績を踏まえて、増田に設計を委ねたものと思われる。増田は一号館に続き、二号館と臨床講堂の設計にも携わることとなった。
◆機能的で合理的な十字放射型プラン
増田は、耐震性に優れた鉄筋コンクリート構造を基本に、機能的で合理的な設計を得意とした建築家だった。一号館では日本で初めての「十字放射型病院建築」プランを提案。十字放射型プランは、①壁面が多いため多くの窓が設置でき採光や風通しがよい、②エレベーターを用いた効率のよい動線計画が可能、③交差部から各病室への目配りがしやすい、④増築がしやすい、などのメリットがある。
この日本初の病院建築プランについて、創立者の吉岡彌生は伝記の中で「学校の附属病院は、暗い冷たい部屋が一つもないように、理想的な病院をつくりたいと思いまして、十字形放射状という面白い設計を選んでみました」と述べている。
増田は優れたデザイナーでもあった。一号館の外壁は、細かい溝が印象的なスクラッチタイルを基本とした全面タイル張りである。大正・昭和のモダン建築を象徴するこの手法は、その後の世界恐慌や戦時体制などで採用が難しくなり、古き良き時代をしのばせるノスタルジックなデザインとして近年に至るまで評判を呼んだ。
正面玄関の庇の中央部には、校章をモチーフとしたテラコッタ(素焼きタイル)製のレリーフを配置。その周りや入口周辺には、波や丸い突起などの意匠を凝らしたタイルが用いられ、落ち着いた中にも軽やかさを感じさせる工夫がなされていた。
一号館・二号館・臨床講堂は、85年の歴史に幕を下ろした。しかし、ここで学び、教え、医療に専念した人々の熱い思いは、跡地に建設が予定されている新校舎棟に受け継がれていくに違いない。
― 解体中の一号館 ―