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概要

シンシア10号

女子医大の創立者吉岡彌生物語?その10一号館?施設の改善に着手し一号館が誕生彌生の息子・博人が結婚式を挙げた昭和5(1930)年には、もう一つ記念すべき出来事があった。のちに東京女子医科大学のシンボルとして親しまれるようになった附属病院「一号館」が、同年12月に完成したのである。夫・荒太の没後、彌生は義弟・正明の助けを借りながら施設の改善に取り組んだ。医学の本場・ドイツに留学していた正明は、荒太が亡くなった翌年の大正12(1923)年春に帰国し、東京女子医学専門学校の副校長として施設の改善策を立案。そこに関東大震災が襲ったが、その打撃にも屈せず、まず幾棟にも分かれていた学生の寄宿舎の建設から取りかかることにした。学生たちに学校の精神への理解を促し、はつらつとした校風をつくり上げていくには、寄宿舎を一つにまとめる必要があると考えたからである。ところが、建設が始まると請負業者が倒産してしまい、工事がストップ。次の発注先の現場監督は工事費を使い込むなど、トラブルが続いた。こうした紆余曲折を経て、大正15(1926)年9月には地上4階・地下1階建て鉄筋コンクリート造りの立派な寄宿舎が出来上がった。470人を収容できる寄宿舎の完成は、学生たちにとって大きな喜びであった。新しい寄宿舎で明るく快適な生活を送るようになった学生たちの間には、それまで欠けていた集団的な規律が自然に生まれ、彌生の狙いどおり学校の統制が図られるようになった。寄宿舎の次に着手したのが、老朽化した病院の整備で一号館(建物右)および二号館(建物左)で構成された東京女子医学専門学校附属病院。2つの建物の間に位置するのが臨床講堂。昭和12(1937)年撮影。ある。たまたま、現在新校舎棟を建設中の敷地が売りに出されたため、これを取得して附属病院を建設することにしたのである。のちに「一号館」と名付けられた附属病院は、日本で初めてとなる“十字放射型”の設計プランが採用された。その理由について彌生は、「暗い冷たい部屋が一つもないように、理想的な病院をつくりたいと思いまして、十字形放射線状という面白い設計を選んでみました」と述べている。一号館は、地上6階・地下2階建ての鉄筋コンクリート造りで、重厚感のある堂々とした建物は、十字放射型プランと相まって病院建築の新たな方向を象徴するものとなった。彌生は厳しい財務状況の中、間髪を入れず臨床講堂も建て増した。さらに、一号館の病床数が想定より少なくなってしまったため、すぐさま第二病棟の増設を決断。昭和11(1936)年11月に完成(のちの「二号館」)した。その結果、当初の計画を大きく上回る病床数を備えた大病院が出来上がった。新しい病院には患者さんが集まりやすい。附属病院にもひっきりなしに患者さんが訪れ、病室はいつも満員の状況を呈した。ついには、病院の地続きにあった彌生の屋敷も明け渡し、病室として提供しなければならなくなったほどである。こうした施設の改善とともに、昭和9(1934)年7月には現在の荒川区尾久に東京女子医学専門学校病院分院(尾久病院、現・東医療センター)が開設された。編集後記■「校舎が新しかったのも女子医大に入学した理由の一つでした」という齋藤加代子先生。一・二号館および臨床講堂があった敷地(上の写真参照)に建設中の新校舎が2020年に完成すれば、齋藤先生のように「ここで学びたい」と願う学生がたくさん集うことでしょう。■心臓血管外科の新浪博士教授の兄・剛史氏は、サントリーホールディングスの社長として知られています。最近は兄弟そろって雑誌などのインタビューを受けることもあるそうです。ジャンルは違えど2人とも注目を集めている人物。ますますのご活躍を期待しています。■国立駅近くにある昭和レトロな雰囲気のロージナ茶房。一橋大学在学中に作家デビューした石原慎太郎氏がよく通い、筆を走らせていたとか。芥川賞受賞作『太陽の季節』もここで執筆されていたかもしれません。■「無事故でいこうヨシ!」と危険予知トレーニングで指差し唱和を行った医学部の4年生。最初は小さな声で恥ずかしそうでしたが、しだいに大きな声で唱和するようになりました。医療安全の重要性も認識したようです。Sincere|No.10-2018 23