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概要

シンシア10号

医療の歴史を彩った女性第10回間宮八重(まみややえ1866~1958年)夫を支えながら北海道開拓民の医療を担う◆吉岡彌生と並ぶ有名女性医師の1人わが国女性医師の第1号として知られる荻野吟子は、東京で医院を開業したものの、のちに北海道開拓に携わった夫を追って渡道し、現在の久遠郡せたな町で夫の開拓を支援しながら診療活動を行った(本誌第5号の当コーナーにて掲載)。この荻野吟子と同じような人生を歩んだのが間宮八重である。八重は1866(慶応2)年8月、陸奥国石川郡(福島県)で生まれた。吟子と同様、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業後、東京女子医科大学の創立者・吉岡彌生も通った済生学舎(現・日本医科大学)で、男子学生から嫌がらせを受けながらも医学の修得に努めた。そして1890(明治23)年、医術開業試験に合格して医師の免許を取得。翌年、東京・本郷に医院を開業した。25歳のときだった。1896(明治29)年、八重は報知新聞紙上において、東京で有名な7人の女性医師の1人として、吉岡彌生らとともに紹介された。この記事の効果もあって、間宮八重の名が広く知られるようになり、医院の評判も高まっていった。◆農場運営に携わりつつ診療活動を行う八重は1899(明治32)年、兄が北海道庁に在職していたときにその部下だった林田成一と結婚。長男も授かった。林田は役人として北海道での農地経営を企画していたが、やがて自ら開拓を志し、十勝郡生剛村(現・浦幌町幾千世)に単身で入植。16戸の小作農家とともに、約160ヘクタールの林田農場を開設した。八重が医院をたたみ、長男・成樹を連れて北海道の夫の元へ向かったのは1908(明治41)年。そのとき八重は42歳になっていた。東京で有名な女性医師との評価を得ていたことから、医院の閉鎖を惜しむ声が多かったに違いない。移住先の生剛村は当時、嘱託で村医を雇っていたものの、しばしば医師不在の時期があったという。いわば“無医村”だったわけである。八重は農場主の妻として夫・成一を支えることに専念していたが、自ずと病人や怪我人の治療、お産の世話などをするようになっていったのは想像に難くない。請われれば、往診にも応じていた。そうした八重の診療活動について、『幾千世小学校閉鎖記念誌』には次のような記述がある。「特に医者の看板はなかったし、診療室というのもなかった。住宅の離れが、薬部屋になっていて、八重さんが医者だと知っている人だけが、そこで診療を受けていた」東京で腕を振るっていた八重である。医院の看板を掲げれば、あっという間に評判を呼んだに違いない。だが八重は、身につけた医術をひけらかすことなく、夫を手伝って農場の運営に重きを置いていたのである。◆夫亡きあとも地域に貢献し続ける昭和に入ってまもなく、夫・成一と長男・成樹が相次いで亡くなった。そうした悲運にもめげず、八重は成一が築いた農場を引き継ぎ、その経営にあたるとともに、請われるままに診療活動を続け、地域に貢献した。姓を間宮に戻し、「林田農場」を「間宮農場」と改称した八重は、その後徐々に農場を耕作者に分譲していった。そしてすべての土地を処分し、87歳となった1953(昭和28)年11月に、45年間を過ごした北海道を後にして東京へ戻った。80歳過ぎまで診療活動を行っていただけに、地域の人々から惜しまれつつの離村だった。83歳で麻雀を覚え、88歳のときに「若ければ自転車の稽古をしたのに…」と語ったという八重。医師であることを公言せずに夫を支え続けた控え目な性格ながら、バイタリティにもあふれていたのである。そのバイタリティこそが、北の大地での苛酷な開拓生活にも耐えることができた源泉だったといえよう。八重は東京に戻って4年2か月後の1958(昭和33)年1月、91歳の天寿を全うした。参考文献/『十勝人心の旅4「海」』(著者:千葉章仁、発行:帯広信用金庫)、『土地改良286号北の大地にて開拓者である夫を凛々しく支えた女医たち』(著者:北室かず子、発行:土地改良建設協会)02 Sincere|No.10-2018