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概要

シンシアNo.9

女子医大の先輩である岩本絹子氏(右、東京女子医科大学副理事長・至誠会会長)、扇内美恵氏(右から2人目、至誠会理事)、大森安恵氏(前、海老名総合病院糖尿病センター長)とのスナップ写真。中央は竹田省氏(順天堂大学特任教授)、左が本人。国家試験対策の教材を抱えて現地を訪れたことが懐かしく思い出されます。■産婦人科医は飽きることがない私は在学中から、産婦人科の大内広子先生と接する機会が多く、4年生の夏休みに臨床現場での実習をお願いしました。そのときに大内先生から、「産婦人科は内科系も外科系も併せ持った奥の深い診療科であり、女性の疾病や健康のために生涯にわたって寄り添っていくという役割を担っています」と教えられました。そして、「40年以上、産婦人科医をしていますが、一度も飽きたことがありません」といわれた言葉が強く印象に残りました。手術ができる医師になりたいと思っていた私は、一般外科も視野に入れていましたが、このことがきっかけとなって産婦人科医の道を進むことにしました。実際に、私もこれまで飽きてしまったと思うことは一度もなく、大内先生の言葉を実感しています。■留学して生殖医療に興味を抱く1985(昭和60)年、循環器外科医の夫がアメリカのジョンス・ホプキンス大学へ留学することになり、私も同大学の産婦人科研究員として留学する機会を得ました。2人の子どもも一緒に連れて行き、ボルチモアの小学校と保育園へ入れました。当時、私は運転免許証を持っていなかったためすぐに取得し、2台目の車を購入して保育園へ通う下の子どもの送り迎えをしながら、治安の良くないダウンタウンを走り抜けて大学へ通いました。私が女子医大を卒業した1978(昭和53)年は、世界で初めて体外受精児(ルイーズちゃん)がイギリスで誕生した年でした。それから生殖医学が広がりはじめ、日本でも5年後に初の体外受精に成功しました。こうした背景もあって、留学先のジョンス・ホプキンス大学では生殖医学の勉強に励みました。そして、不妊症や不育症、免疫を含めた生殖医療にますます興味がわき、帰国して女子医大へ戻ってからも生殖と内分泌分野の臨床・研究に取り組み、2005(平成17)年には生殖医療専門医の認定資格を取得しました。■移転とともに診療科の充実を図る女子医大で講師と助教授を約9年間ずつ務めたあと、2004(平成16)年4月に愛育病院へ転じ、産婦人科部長に就任しました。愛育病院は周産期医療に特化した施設で、大学病院とは大きな違いがありました。例えば、研修医や専攻医を直接入局させるシステムがありません。このため、専攻医を関連大学から派遣してもらい、6~12か月間受け入れても、次の専攻医がいなければ、医局員は減ってしまいます。そこで、関連の医療施設と協力し、周産期・生殖医療・腫瘍の3分野の研修ができる産婦人科の研修プログラムを構築し、直接専攻医を受け入れて医局員の確保を図りました。また、子育て中の女性医師が安心して勤務できる環境を整えるため、保育園と病児保育の整備をはじめ、当直免除や当直明けの勤務緩和、時短勤務、週1回の在宅勤務などの施策を展開してきました。私が研修医時代、子育てをしながら仕事を続けていくことの難しさを、いやというほど実感してきたことが、これらの施策づくりに生かされていることはいうまでもありません。愛育病院は3年前に、東京・南麻布から芝浦に移転しました。それとともに、麻酔科や放射線科、女性内科、女性外科、ドック検診などを充実・強化し、母と子の健康を守り、女性の生涯の健康を考える医療の提供に努めています。私は愛育病院に赴任して以来、子育て中の女性医師を含めたすべての医師が、ここで働くことに誇りを持てるような環境づくりを推進してきました。それが結果として、愛育病院で診療を受けるすべての方のご満足につながると確信しています。安達知子(あだちともこ)1978年に東京女子医科大学卒業後、同大学産婦人科学教室に入局。85年5月から86年12月までジョンス・ホプキンス大学研究員。87年東京女子医科大学産婦人科学教室講師、95年同助教授を経て、2004年愛育病院産婦人科部長、2013年同病院副院長、2017年12月から院長。東京女子医科大学・徳島大学の客員教授を兼務。現在、日本産婦人科医会常務理事、日本産婦人科・新生児血液学会理事、日本妊娠高血圧学会理事、日本産科婦人科学会代議員、日本周産期・新生児医学会評議員、日本受精着床学会評議員などを務める。また、これまで数々の国・自治体の審議会や各種委員会などの委員も務める。Sincere|No.9-2018 05