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概要

シンシアNo.9

女子医大の創立者吉岡彌生物語?その9息子の結婚?乳がんの克服と息子・博人の結婚医者の不養生とは、よくいったものである。関東大震災後業し、そのまま衛生学教室に残って基礎医学の道に進んだ。の目の回るような忙しさの中、彌生は肺炎を患って寝込んでし「そろそろ良き伴侶を」と願っていた彌生に、静岡の義姉かまった。それでも、少しよくなると起き出して患者を診察したりら縁談が持ち込まれた。富士山の麓にある村の旧家の次女するため、また熱が出て寝込むといった具合で、なかなか回に生まれた小沢みち子がその相手だった。写真を見た博人復しなかった。大正13(1924)年2月11日の紀元節に、勲六等は当初、難色を示していたが、歌舞伎座での見合いでみち瑞宝章を賜る栄誉に浴したときも、寝込んでいたという始末で子に好印象を抱き、すべてを彌生に委ねた。こうして話がとんあった。とん拍子に進み、昭和4年暮れに結納を交わし、翌昭和5休養が必要だと痛感した彌生は、周囲のすすめもあって葉(1930)年4月15日に結婚式を挙げることとなった。山と軽井沢での転地療養を試婚礼の当日、日比谷大神宮みた。だが、やはり仕事が気にで神前結婚の式を挙げ、そのなって十分な休養をとらぬまま晩に東京會舘で披露宴が行東京へ舞い戻ってしまう。このわれた。列席者は実に800人ため、いつまで経っても咳が治以上にもおよんだ。当初は招らなかった。待客の人数を抑えていたが、昭和2(1927)年に入ってまも博人の婚約を聞きつけてお祝なく、彌生は右の乳房に小さないに訪れる人が引きも切らず、しこりがあることに気づく。その「あの人も、この人も呼ばなけうち、疼痛が走るようになった。れば…」という結果、この数字「これはがんに違いない」。医東京會舘で行われた息子・博人とみち子の結婚披露宴。列席者は800人超を数えた。に膨れ上がったのである。賑者である彌生はそう判断し、7月に手術を受けることになった。やかなことが好きな彌生も、会場のあまりの混雑ぶりに驚くほ手術後の経過は極めて良好で、1年後にはホノルルで開かどだった。れた「第1回汎太平洋婦人会議」に日本代表として出席するだが、披露宴はこれで終わったわけではなかった。翌日はなど、彌生はますます丈夫な体になっていった。秋になって船学校関係者や牛込婦人会の人たち300人を、その翌日も病で帰国する途上には、長い間悩まされていた咳もすっかり治っ院の従業員や出入りの業者など300人を上野精養軒に招き、ていた。彌生は、「始末に困っていた疫病を太平洋に落として披露宴を開催したのである。彌生が荒太と結婚したときは、きたようなもの」と語っている。荒太の2人の弟とわずか4人で蕎麦を食べながら質素に祝っこのアメリカへの旅には、息子の博人が通訳として同行したものだが、息子の結婚には惜しみなく費用を使い、人生のた。博人は翌昭和4(1929)年春に東京帝国大学医学部を卒門出を祝福したのである。編集後記■台風が襲来しても予定どおり朝早くから「ハイリスク症例検討会」が行われ、7つの医療施設の医療安全担当者が夜7時に一堂に会し、医療安全について遅くまで熱心に意見を交わす。真摯に医療安全に取り組んでいる関係者の姿に接し、深い感銘を受けました。■「医師は当直を減らして自分の体を守らなければならない。それが患者さんを守ることにつながる」という田邉病院長。医師の過重労働が問題となっている中、その言葉は示唆に富んだものでした。■「女子医出身者が活躍する街」で訪れた長野県・松本は、上條医院をはじめどの取材先も好意的・協力的で印象深いものでした。いつの日かゆっくりと再訪したいものです。■理系志望の女子中高生を対象とした進路選択支援プログラム。その一つ、「私も未来の科学者」というプログラムに参加した中学生の1人は、マウスの解剖にひるむことなくチャレンジし、興味津々の様子でした。そして「人体の解剖もやってみたい」と発言し、参加者を驚かせていました。恐るべし女子中学生!Sincere|No.9-2018 23