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概要

シンシアNo8

医療の歴史を彩った女性第8回萩原タケ(はぎわらたけ1873~1936年)看護婦育成に半生を捧げた日本のナイチンゲール◆幼少の頃から向学心が旺盛看護活動に顕著な功労のある人を顕彰するために赤十字国際委員会が制定した「フローレンス・ナイチンゲール記章」。その第1回目の授与は、ナイチンゲール生誕100周年を記念して1920(大正9)年に行われた。この栄えある記章の受章者(52人)の中には3人の日本人が名を連ねた。その1人が萩原タケである。タケは1873(明治6)年、神奈川県西多摩郡五日市村(現・東京都あきる野市五日市)で藁屋を営む家に生まれた。母親のすすめで5歳のときに勧能学校という小学校に入学。成績優秀でめきめき頭角を現したものの、家計が貧しかったため通ったのは3年間ほどだった。それでもタケの向学心は衰えず、弟たちの子守りや家事を手伝いながら本をむさぼり読み、寺の夜学にも顔を出した。さらに、『女学雑誌』という女性誌の通信教育を受け始め、和歌や漢学、算術、歴史、理化学などを学び、1891(明治24)年に全科を修了して卒業証書を得た。その年にタケは産婆学校に入学すべく上京。だが、すぐさま学費や生活費に窮し、わずか1年足らずで帰郷を余儀なくされた。◆27歳で病院船の看護婦長に抜擢転機が訪れたのは20歳のときだった。日本赤十字社が看護婦生徒を募集しており、しかも学費が支給されるということを知ったタケは迷わず応募。みごと合格し、1893(明治26)年に看護婦養成所に入学したのである。手先が器用で動作が機敏なうえ、気配り上手でもあったタケは、たちまち看護あきる野市役所五日市出張所敷地内に建つ萩原タケの胸像。婦としての素質を開花させる。1894(明治27)年に日清戦争が勃発すると、看護婦養成所の生徒たちも傷病兵の看護に従事することになったが、だれにでも優しく丁寧に接するタケの献身的な看護は、患者や医師から高く評価された。1896(明治29)年に看護婦養成所を卒業したタケは、日本赤十字社病院(現・日本赤十字社医療センター)で看護婦として本格的なスタートを切った。1900(明治33)年に中国で起きた北清事変(義和団事件)の際には、派遣された病院船「弘済丸」の看護婦長に抜擢され、フランス兵をはじめとする連合国軍の傷病兵も看護。その功績により、フランス政府から「オフィシェ・ド・アカデミー記章」が贈られた。1903(明治36)年、30歳となったタケは日赤病院看護婦副取締となり、看護婦を統括するとともに生徒の教育にも携わるようになった。そして1907(明治40)年、再び大きな転機が訪れる。伏見宮家から山内豊景侯爵に嫁いだ禎子夫人の洋行に随行することになったのである。◆ポーランド人孤児救済を陣頭指揮侯爵夫人の随行員としてヨーロッパを訪れたタケは、任務終了後もパリに残って語学の勉強に励んだ。その間に梨本宮殿下夫妻のヨーロッパ各国訪問にも随行し、それらの国々の病院を訪れて看護の実態を視察するチャンスを得た。また、国際看護婦(師)協会のロンドン会議にも出席し、世界各国から集まった女性たちが積極的に意見を交わし合う熱気に深い感動を覚えた。約2年間のヨーロッパ滞在を経て帰国したタケは、各国の看護事情に精通した女性として注目を集め、1910(明治43)年には日赤病院看護婦監督に就任した。37歳にして日赤病院看護部門のトップに上り詰めたのである。フローレンス・ナイチンゲール記章を受章した1920年は、タケにとって別の意味で感慨深い年となった。ロシア革命後の混乱の中、シベリアに流刑されたポーランド人は飢えと寒さで凄惨な目に遭っていた。せめて孤児だけでも救おうと、ウラジオストク在住のポーランド人が欧米各国に救済を依頼したが失敗。最後の頼みの綱となったのが日本であり、日本赤十字社が孤児を救済することになった。タケの指揮の下、1920年に375人、翌々年に390人の孤児を受け入れ、温かな看護を提供。タケ自身も合間を縫って子どもたちを励ました。元気を取り戻した彼らは無事、ポーランドに帰国した。晩年に持病の喘息を悪化させたタケだが、1936(昭和11)年に日赤病院で息を引き取るまで26年間、看護婦監督を務め、数多くの看護婦を育成した。その数は実に2,700人余りにものぼる。参考資料/あきる野市デジタルアーカイブ「あきる野市ゆかりの人々・萩原タケ」、特定非営利活動法人国際留学生協会向学新聞「現代日本の源流・萩原タケ」02 Sincere|No.8-2017