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概要

シンシア No.7

女子医大の創立者吉岡彌生物語?その7夫の死?夫・荒太が53歳の生涯を閉じる東京女子医学専門学校(女子医専)は大正9(1920)年3月、国家試験を受けなくても卒業後すぐに医師になれる文部省の指定学校となった。この年の秋頃から、糖尿病を患っていた彌生の夫・荒太の病状が目立って悪化してきた。元気だった頃は80kg近くあった体重が45kg弱にまで減少し、頻尿のうえ糖分や蛋白質が尿に混じるようになった。彌生は、群馬県・四万温泉や神奈川県・葉山海岸での転地療養をすすめたが、荒太は学校のことが気になってすぐに家へ帰ってきてしまう。そして、人力車に乗って学校へ講義に出かけるといった始末であった。だが、大正11(1922)年3月末からは学校へも行くことができなくなった。それでも、新築の3階建て大講堂で落成式を兼ねて行われた4月の入学式には、彌生が制止するのもきかず人の肩にすがって会場へ向かった。しかし、3階まで上ることはできなかった。芝・増上寺で行われた荒太の告別式。6月半ば過ぎからは病状がさらに悪化。同月29日には近親者や主だった人たちに危篤を知らせる電報が打たれた。病床にかけつけた卒業生や先生たちの手厚い看病により、それからしばらくは持ちこたえた。彌生は、多少気分の良さそうなときに、それとなく遺言を求めた。返ってきた言葉は、「女子医専を大学にするまでは死にきれない」というものだった。それは彌生の胸に切なく響いた。そして7月5日午前11時15分、カンフル注射を打っている最中に突然、心臓の鼓動が止まり、荒太は53歳の生涯を閉じた。この日は、息子の博人が第一高等学校(現在の東京大学教養学部)に入学して最初の試験の最終日だった。博人は試験が終わると大急ぎで帰ってきたが、死に目には間に合わなかった。口数が少なく学究肌の荒太は、彌生にとって杖であり柱であった。医者である彌生には、荒太があまり長生きはできないと分かっていたが、これほど早く別れが来るとは思っていなかった。生きがいを失ったような気がして、彌生は茫然自失の状態に陥った。だが、いつまでも感傷に浸っているわけにはいかない。親族や校友有志と協議して荒太の葬儀を校葬とすることにし、7月7日に柩を大講堂に据えて通夜が営まれた。荒太を慕っていた学生たちは交代で一晩中、柩に寄り添い、別れを惜しんだ。8日には柩が芝の増上寺に移され、告別式が行われた。会葬者はおよそ1,700人にのぼり、増上寺の斎場は立錐の余地がないほどだった。翌大正12(1923)年3月、荒太の故郷(現・佐賀県唐津市肥前町高串)でも葬儀が行われた。会葬者は実に3,000人。高串は漁村だが、村の人たちは仕事を休み、総出で哀悼の意を表したのだ。愛郷心の強かった荒太は、彌生がびっくりするほど故郷・高串で人望を集めていたのである。編集後記■海外アイアンマンレースの自転車で転倒し、骨盤骨折の大ケガを負った稲葉貴子さん。取材当日もまだ走ることができない状態でしたが、快く撮影に協力していただきました。1日も早い完全復活を願っています。■今年4月からスタート予定だった新専門医制度が延期されることになりましたが、「新制度は標準的な専門医を育てようとするもの。我々はそうした枠にはめる医師ではなく、もっとレベルの高い飛び抜けた専門性を備えた医師の育成をめざしています」という消化器病センター長・山本教授の言葉が印象的でした。■至誠会第二病院は経営母体が女子医大の同窓会という極めてユニークな病院です。「至誠会第一病院が見当たらないのになぜ第二病院?」という疑問も取材で明らかになりました。■女子医大ならではの「女性医師のロールモデル実習」に密着取材。学生たちが医療だけでなく、ライフプランについても先輩女性医師からさまざまなことを学んでいく姿はほほえましいものでした。実習生をボランティアで受け入れている先輩たちの心意気にも感銘を受けました。●本誌掲載写真のうち患者さんが写っているものはすべて許可を得て撮影しています。Sincere|No.7-2017 23