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概要

シンシア No.7

医療の歴史を彩った女性第7回看護婦養成学校設立に尽力した大山捨松“鹿鳴館の貴婦人”(おおやますてまつ1860~1919年)◆岩倉使節団に加わった少女の1人11歳のときに初の女子留学生としてアメリカへ渡り、アジア人女性として初めてアメリカの大学の学位を取得するとともに看護婦養成学校にも学び、帰国後は社交界にデビューして“鹿鳴館の華”と呼ばれ、日本の看護婦養成にも尽力。この類い希な才媛が大山捨松である。幼少期は咲という名前だった捨松は1860(万延元)年、会津藩家老職の山川家に生まれた。8歳のときに勃発した戊辰戦争時には鶴ヶ城に籠城し、撃ち込まれた砲弾によってけがを負う。このとき官軍の砲兵隊長を務めていたのが、のちに夫となる大山巌である。敗戦後、箱館のフランス人家庭に預けられていた咲は、兄・大蔵から「アメリカへ行って学問をせよ」と告げられる。1871(明治4)年10月、岩倉使節団に女子も加えることになり、女子留学生が募集された。大蔵がこれに応じ、咲を留学させることにしたのである。留学生は咲を含めて5人。11月の旅立ちの際、咲の母親は「おまえを捨てたつもりで帰りを待つ(松)」と、捨松に改名させた。アメリカへ渡った5人はワシントンで共同生活を始めたが、1年を経ずして2人が体調を崩し、日本へ帰国。これを機に、捨松と永井繁子がコネチカット州ニューヘイブンへ移って別々の牧師宅へ、一番年下の津田梅子はワシントンの画家夫妻宅に預けられた。◆感銘を与えた名門女子大卒業時の演説1875(明治8)年に高校へ入学した捨松は、大学受験コースを選択して勉強に専念し、ニューヨーク州の名門女子大学・ヴァッサーカレッジに入学。繁子も音楽専攻の特別生として受け入れられた。2人はたちまちキャンパスの人気者となった。ある教授は捨松を、「すらりと伸びた肢体、優雅な身のこなし。寛大で慎み深く、人当たりのよい女性でした」というように描写している。1882(明治15)年、ヴァッサーカレッジ卒業生代表の1人に選ばれた捨松は、「イギリスの日本に対する外交政策」というテーマで演説。そのすばらしさに拍手が鳴りやまなかった。捨松はのちに、「ヴァッサーでの4年間は生涯で最も希望に満ちていた」と述懐している。卒業後、捨松はワシントンの高校を卒業した梅子とともに帰国を促される。繁子はひと足先に日本へ帰っていた。捨松は帰国までの短期間、コネチカット看護婦養成学校に通い、看護の知識も得た。11年間の留学生活を終えて日本に帰国した捨松は、繁子の結婚披露パーティーで英語劇を上演。招待されていた陸軍卿・大山巌が彼女を見そめ、縁談を申し入れた。大山は会津の仇敵・薩摩人。しかも40歳過ぎで再婚となる。だが捨松は、自分と同じ洋行帰りの大山と意気投合し、1883(明治16)年11月に結婚。同月にオープンした鹿鳴館で華々しく社交界にデビューし、翌月には外国人を含む約1,000人を鹿鳴館に招いて結婚披露宴が行われた。官費留学生だった捨松は、鹿鳴館でステップを踏むことが日本の欧化政策に役立ち、女性の地位向上にもつながると考えていたのである。◆女子教育にも情熱を注ぐそんなある日、捨松は有志共立東京病院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)を訪れ、看護婦不在であることに驚く。彼女は看護婦養成学校づくりを支援すべく、鹿鳴館で慈善バザーを開催。3日間で1万2,000人を集め、目標を大幅に上回る8,000円の収益金を有志共立東京病院に寄付した。その後も看護婦の養成を説いて「日本赤十字社篤志看護婦人会」の設立発起人となり、日露戦争時には先頭に立って包帯づくりや募金集めなどのボランティア活動を行った。1900(明治33)年、津田梅子が女子英学塾(現・津田塾大学)を設立。女子教育にも情熱を抱いていた捨松は顧問に就任し、女子英学塾を支援した。ちなみに、吉岡彌生が東京女医学校を設立したのもこの年である。1919(大正8)年1月、梅子が塾長を辞任したあとも捨松は奔走。その頃、スペイン風邪がはびこり、捨松も感染していた。病をおして塾長代理の就任式を見届けた彼女は床に伏し、肺炎を併発。そして2月18日に還らぬ人となった。夫・巌が亡くなって2年後のことだった。参考文献/『鹿鳴館の貴婦人大山捨松』(著者:久野明子、発行:中央公論社)、『鹿鳴館の華とうたわれた会津の女性大山捨松』(発行:会津若松市観光公社)02 Sincere|No.7-2017