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概要

sincere no05

女子医大の創立者吉岡彌生物語?その5医学専門学校?女医学校から医学専門学校へ昇格河田町校舎の隣に寄宿舎を設置した明治37(1904)年、彌生の頭を悩ませる問題が持ち上がった。医術開業試験が10年後に廃止され、それ以降は医学専門学校の卒業生でなければ新しい医師試験を受けることができない。それまでに東京女医学校を医学専門学校にしなければならないのだ。彌生にはもう一つの悩みがあった。女医学校設立以来、まだ一人も医術開業試験の合格者が出ておらず、それが大きなプレッシャーとなっていた。試験は、基礎科目中心の前期試験と臨床科目中心の後期試験があり、前期試験をクリアする学生は何人もいたが、後期試験合格者はまだ一人もいない。早く合格者を出して学校の実力を示す必要があった。明治41(1908)年、ようやくその日がやってきた。井出茂代(結婚後、竹内姓)が後期試験に合格したのである。当時の女医学校は、医術開業試験合格と同時に卒業という仕組みであった。彌生は井出の卒業式を盛大に行うことにし、各界の名士を多数招待した。その中には早稲田大学の創立者・大隈重信も含まれていた。卒業式当日、来賓の祝辞が始まると会場はにわかに騒がしくなった。「女性医師の進出は女性の進歩の現れ」と祝福する人がいる一方、「女子に高等教育をさせると晩婚になって人口が減る」との反対論を述べる人もいる。さらに、「手術をして平気で血を流すような女がふえたら日本は滅びてしまう」といった“女医亡国論”まで出る始末。めでたい東京女医学校初の卒業生(医術開業試験合格者)井出茂代とともに記念写真に収まる吉岡荒太・彌生夫妻。式典が一転、討論の場と化してしまった。これを収めたのが大隈重信である。「女性が医師としてふさわしいか否か、10年、15年の長い目で見て判断するべきではないか」というひと言で会場は静まりかえった。この卒業式を起点として、東京女医学校では後期試験の合格者が続々と誕生するようになった。そして、学校の実力がようやく世間一般に認められるようになり、彌生はホッと一息つくことができた。それもつかの間、今度は東京女医学校を医学専門学校にしなければならないというハードルが待ちかまえていた。猶予は5年余りしかない。すでに300人に達していた学生たちを路頭に迷わすことはできない。彌生は明治42(1909)年6月、専門学校設立の申請書をつくり、東京府へ提出して文部省からの返事を待った。だが、半年経ってもなしのつぶて。問い合わせてみると、申請書は文部省庶務課の書類の山に紛れ込んでいた。彌生は何度も文部省へ出向き、学校を視察して改善すべき点を指示してほしいと懇願した。文部省の視察により、施療患者の病室を25室設けることなど指示された条件を満たし、申請書類を再提出。さらに、経営主体を個人から財団法人に切り替える手続きをしたことにより、ようやく明治45(1912)年3月に医学専門学校設立の認可が下りた。新しく門に掲げた白木の看板には、「東京女子医学専門学校」の文字が躍動していた。編集後記■少々古い映像ですが、女子医大の学生がレポーターとなって荻野吟子の足跡をたどったビデオがYouTubeにアップされています。「日本の女医第1号荻野吟子の生涯-熊谷デジタルミュージアム」で検索できます。北海道ロケまで行った興味深いものです。ぜひご覧あれ。■作家の遠藤周作氏が、まだ女子医大生だった山口トキコさんに目をかけ、肛門科医をすすめたという話は、遠藤氏の一面を知るうえからもたいへん貴重なエピソードでした。■糖尿病センターの内潟安子教授は、毎日だれよりも早くセンターに顔を出し、夜遅くまで忙しく仕事をこなしています。取材当日も夜9時半過ぎまで我々スタッフに対応してくださいました。頭の下がる思いです。■医師として大切な“考える力”やコミュニケーション能力は、こうして養成されるのだと実感したのが、テュートリアルとTBL。少人数のグループに分かれて活発に意見を交わしながら問題を解決していく。人の意見に耳を傾けることが、患者さんに寄り添う医療と“チーム医療”の基本であることが理解できました。●本誌掲載写真のうち患者さんが写っているものはすべて許可を得て撮影しています。Sincere|No.5-2016 23