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概要

sincere no04

女子医大の創立者吉岡彌生物語?その4河田町校舎?女医学校を河田町へ移し寄宿舎も新築明治33(1900)年12月に飯田町の東京至誠医院(現在の千代田区九段北一丁目)の一室を教室にして開校した東京女医学校(のちの東京女子医科大学)は、翌年5月に市谷仲之町へ移った。そこは政治家が住んでいた屋敷で、少しは学校らしくなったものの、設備や授業はまだまだ満足のいくものではなかった。そのうえ家賃がかさんだため、経営は火の車。彌生は年末に郷里の父からお金を借り、なんとか年を越すことができた。父からは、「郷里へ戻ってきて医院を開業したらどうか」とすすめられたが、「東京女医学校は日本の女性医師の将来のためにつくったもの。死んでもつぶすわけにはいかない」と、彌生は決意を新たにした。そうした中、彌生は子を授かり、明治35(1902)年6月に長男・博人を出産した。荒太・彌生夫妻はもとより、寄宿生にとっても博人の誕生は大きな喜びであった。彌生は育児に追われながらも、東京至誠医院での診察や往診を休むことなく、医師としての仕事も精力的にこなした。幸い博人は彌生を手河田町に移転後の明治39(1906)年当時の東京女医学校。こずらせることもなく、すくすくと育った。そんなある日、彌生は学生から「獣医学校が麻布へ引っ越して空いているようです」と知らされた。獣医学校は瀟洒な洋館で、近くの河田町に立地していた。市谷仲之町の建物は普通の日本家屋。校舎というにはほど遠いものであり、学生たちはもっと学校らしい校舎で勉強したいと願っていた。その希望を叶えてあげようと、彌生はさっそく調査に乗り出した。獣医学校の敷地・建物の売値は1,200円。そのうち900円が抵当に入っており、それを肩代わりすればとりあえず300円で手に入れることができる。彌生はどうにか200円をかき集め、残る100円は金融業者から借りて300円を用意し、獣医学校跡を入手。明治36(1903)年3月に東京女医学校をここに移した。建物はもともと学校として造られたものだけに使い勝手がよく、学生たちの喜びはひとしおだった。校舎は河田町へ移転したものの、そこには寄宿舎がなく、寄宿生は市谷仲之町から通っていた。河田町の学校敷地内に寄宿舎を建ててほしいと要望されたが、先立つものがない。彌生は知恵を絞り、学校創立3周年を記念した音楽会を11月に開催し、その収益で寄宿舎を造ろうと考えた。この計画に学生たちも大賛成し、授業の合間や放課後に東京市内を駆け回り、切符を売りさばいた。売上げ枚数は実に1,200枚にものぼり、本郷の中央会堂で昼夜2回に分けて記念音楽会が盛大に行われ、東京女医学校の名声を大いに高めることとなった。これで得た収益金をベースに、明治37(1904)年6月、校舎の隣に診察所を兼ねた寄宿舎を新築。市谷仲之町から引っ越してきた20人の学生たちの顔は、明るい希望に満ちていた。編集後記■遺伝子医療センターのスタッフは圧倒的に女性が多く、取材当日のカンファレンスは出席者全員が女性。新しい医療分野を女性たちが切り開いていることを頼もしく思いました。■一方、泌尿器科ではなんと朝7時からカンファレンスが行われ、しかも話す言葉は英語。研修や見学に訪れる外国人に配慮して数年前から英語で行っているとのことですが、腎移植で世界的に名声を得ていることを物語る一面でした。■その腎移植の基盤を築いたのが、田邉教授に引き継ぐまで泌尿器科をリードしてきた東間教授。奇しくも、至誠人に登場いただいた貫戸朋子さんが、「すばらしい先生でした」とエピソードを交えながら東間教授について語ってくれました。■八千代といえば京成バラ園。取材に訪れた日はちょうど見頃で、園内はまるで別世界。「美しい」の一語に尽きるものでした。一見の価値あり。■筆を手にして漢字で自分の名前を書き、浴衣に着替えて神妙な手つきで茶碗を口に運ぶアメリカの女子学生。大東キャンパスでの文化交流はとてもほほえましいものでした。●本誌掲載写真のうち患者さんが写っているものはすべて許可を得て撮影しています。Sincere|No.4-2015 23