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概要

sincere no04

医療の歴史を彩った女性第4回日本の女性医師の楠本イネ先駆けとなったシーボルトの娘(くすもといね1827~1903年)◆14歳で医師になることを決意「難産でも医者(男)を拒み、手遅れになる場合が多い。女の医者がいれば命を落とさず、子も助かる。イネさんには産科の医者になってもらいたい。シーボルト先生は産科にも長じておられた。イネさんが産科医になられるのは自然の理だ」。シーボルトの門弟・二宮敬作からそういわれたイネは、医者になろうと決心する。14歳のときだった。イネは1827年、ドイツ人の医師フォン・シーボルトの娘として誕生。母は長崎出そのおうぎ島でシーボルトのお抱えだった其扇(本名・滝)である。鎖国下の当時、日本に入国できるのはオランダ人と中国人だけだった。シーボルトはドイツ人だったが、出島のオランダ商館医として日本の土を踏んだのである。そして鳴滝塾を開き、多くの門下生に医学を教えた。だが、シーボルトは日本地図を入手するなどの国禁を犯し、イネが2歳のときに国外追放となった。寺子屋へ通うようになったイネはたちまち頭角を現し、学問を身につけてオランダ語でシーボルトに手紙を出したいと思うようになった。手を焼いた母の滝は、伊予宇和島で開業医をしていた二宮敬作にイネを預けることにしたのである。◆村田蔵六からオランダ語を学ぶ敬作のもとで5年間、医学の基礎を学んだイネはその後、岡山の石井宗謙を訪ねる。宗謙もシーボルトの門弟で産科に秀でていた。産科医としての知識と技術を修得していったイネは、その知的な美貌とも相まって岡山で評判を呼び、失東京女子医科大学のキャンパス内にある楠本イネ像(イネゆかりの愛媛県出身の彫刻家・乗松巌作)。本稲と名乗るようになった。失本はシーボルトにちなんだ姓である。そんなイネに悲劇が訪れる。宗謙から情交関係を迫られ身ごもってしまったのだ。失意のうちに女児を出産したイネは、長崎の母のもとへ帰った。そこで再会した二宮敬作から、村田蔵六(のちの大村益次郎)に師事するようすすめられる。緒方洪庵の適塾で塾頭を務めた長州藩の蔵六は、宇和島藩主の伊達宗城から招かれていたのである。イネは再び宇和島へ行き、蔵六からオランダ語を学んだ。のちに大村益次郎が刺客に襲われて大阪府病院に入院したとき、娘夫婦と大阪で暮らしていたイネはオランダの軍医ボードインとともに益次郎の治療にあたり、最期を看取った。しいもとむねなり1859年、滝・イネ親子は追放令が解除されて再来日したシーボルトと30年ぶりに再会した。シーボルトは1862年まで日本に滞在し、66年にミュンヘンで死去。その3年後に母の滝も世を去った。◆宮内省御用掛の栄誉に浴するイネは38歳のとき、伊達宗城から楠本いとく伊篤と改名するようにいわれ、宗城に感謝するとともに医学の道を究めたいという気持ちをさらに強くした。44歳になったイネは東京へ赴き、イギリス公使館の通訳官をしていた異母弟のアレキサンデルと会い、彼が手配してくれた築地の洋館で「産科医」の看板を掲げた。イネの名声はすぐに広まり、多忙な日々を送るようになった。そうした中、イネは福澤諭吉と会う機会を得て宮内省御用掛に推挙され、産科医として明治天皇の典侍・葉室光子に付き添うという栄誉に浴した。これにより、イネの名声はさらに高まった。1875年、医術開業試験が導入された。医学の急速な進歩を感じはじめたイネは、余生を長崎で送ろうと帰郷した。だが1885年、荻野吟子が女性で初めて医術開業試験に合格して医院を開業したことを知り、再び東京で医師として腕を振るいたいと思うようになった。イネは1889年に再上京を決意。すでに62歳を迎えていた。それから5年間、「楠本医院」の看板を掲げて診療活動を行い、1903年8月、76歳で波乱の生涯を閉じた。東京女子医科大学の創立者・吉岡彌生は楠本イネについて、「荻野吟子をはじめとする新しい女性医師が輩出されてくるまでの過渡期を代表した唯一の女性医師であった」というように評している。参考文献/『ふぉん・しいほるとの娘』(著者:吉村昭、発行:新潮社)、『吉岡弥生傳』(編者:吉岡彌生女史傳記編纂委員会、発行:東京聯合婦人會出版部)02 Sincere|No.4-2015