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概要

シンシア 2014.No.1

吉岡彌生(よしおかやよい、1871~1959年)女子医大を創立した女性医師育成の先駆者◆我が国初の女性のみの医育機関◆女性の社会的地位の向上に尽力医学医術は婦人に適している立派な職業―。女性の社会的地位がまだ低かった明治期に、そう考えた女性がいた。1892(明治25)年、日本で27番目の女性医師となった吉岡彌生がその人である。彌生は1889(明治22)年から3年間、済生学舎(現日本医科大学)で医学を学んだ。当時、済生学舎は男女共学だったが、男女間の風紀の乱れから女子生徒の入学を拒否するようになった。「行き場を失った女子生徒を救わなければ……」彌生は1897(明治30)年から開業していた東京至誠医院の一室を教室として「東京女医学校」の看板を掲げた。1900(明治33)年12月、彌生29歳のときである。ここに、我が国初の女性のみの医育機関が誕生した。彌生は『医人』(7巻5号、1958年)で次のように述べている。「私の考えの根底にあるものは、医学ではなくて、婦人であります。もし医学教育のみに眼をそそぐならば、共学の方が有利かもわかりません。また病院の経営のみを考えたならば、共学の卒業生が勤務する方が楽かもしれません。しかし、私の建学の趣旨は上述のとおりでありますので、終戦東京女医学校創立当時の吉岡彌生(29歳)後の困難な時期にも、ついに初志をまげずに頑張りとおしました。すなわち、終戦後のわが国の医学教育制度改革に際して、文部当局は再三にわたつて、女子医学教育を固執することの不利を公式、非公式に勧告されました。けれども、私はいかなる不利の条件にあうとも、この信念をまげまいと考えておりましたので、種種外国の事情などを説明して、女子医学教育の必要性を強調したのでありました。」そして1951(昭和26)年、ついに新制大学の認可を取得。翌年、新制東京女子医科大学として新たなスタートを切った。彌生は病院と学校を運営するとともに、さまざまな婦人団体などの要職を務めた。1920(大正9)年に日本女医会会長、1937(昭和12)年に女性初の内閣教育審議会委員に就任している。また、1928(昭和3)年にホノルルで開かれた第1回汎太平洋婦人会議に市川房枝(元参議院議員)らとともに出席。1939(昭和14)年には厚生省・文部省の嘱託として欧米を視察するなど、女性医師の育成と女性の社会的地位の向上に尽力した。東京女子医科大学発足と同時に学頭に就任した彌生は81歳となっていた。それから7年後の1959(昭和34)年、世田谷の自宅で教え子に見守られながら88歳で息を引き取った。1998(平成10)年、世界的な総合病院として知られるアメリカの「メイヨー・クリニック」で、医学に貢献した女性たちを紹介する展示が行われた。ノーベル物理学賞受賞者のキュリー夫人や世界最初の女性医師、エリザベス・ブラックウェルなど十数名の名だたる女性の中に吉岡彌生も含まれていた。女性医師育成の功績が世界に認められたのである。『Sincere』創刊にあたって本誌『Sincere』は、東京女子医科大学の関係者をはじめ、女子医大の拠点のある地域の方々や広く一般の方々にも女子医大をもっと知っていただくために新たに創刊したコミュニケーションマガジンです。世界的にもユニークな女性医療者を育成する教育部門、再生医療をはじめとした先端的な研究が行われている研究部門、先進的かつ大規模な医療部門、これら3分野の現在と未来を発信したいと思います。読者の皆様に女子医大を一層ご理解いただき、ご支援いただければ幸いです。当初は年2回の発行となりますが、皆様に親しまれ愛される誌面づくりをめざしますので、末長くご愛読くださいますようお願い申し上げます。東京女子医科大学理事長吉岡俊正02 Sincere|No.1-2014