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発見!!女子医大

歴史を刻んだ卒業生history

佐藤やい(大正12年卒業/1898年〜1964年)

〜母校に尽くした病理学教授〜


佐藤(旧姓:安川)やいは1898年、富山県で誕生しました。家庭の事情で進学をあきらめ、地元の医院で看護婦見習いをしていた時に吉岡彌生と東京女子医学専門学校の存在を知ります。1915年女子医専の給仕募集に応募して17歳で上京。吉岡に見込まれて書生として働きながら勉強し、専門学校の入学資格を得て、女子医専に入学します。1923年の卒業後は当時女性としてはまれな病理学へと進み、母校で助教授となりました。

1932年にはドイツへ留学します。見送りの際吉岡は、自分はかねて後継者を佐藤と心にきめていたが、この目にくるいはなかった、と言ったそうです。佐藤はフライブルグ大学病理学教室で2年間研究に専念し帰国。その後医学博士の学位を取得しました。家庭をもちながらも生涯母校を離れることはなく、1940年教授に就任して病理学教室の発展に尽くしました。

また、同窓会である至誠会では長年に亘り理事や副会長を務めて、女子医専の大学昇格や大学院設置の寄附金集めに奔走し、学校の発展を支えました。吉岡逝去後は至誠会会長となった竹内茂代(明治41年卒)を支えつつ、女子医大理事、日本女医会会長、国際女医会理事を務めるなど、学内外で活躍しました。

1950年頃から目の病のため病理学からは遠ざかり、厚生補導部長として学生のよき相談相手になり慕われました。しかし1964年2月27日、66歳で逝去。病床についてからわずか1ヶ月ほどのことでした。

佐藤が「学生に役立ててほしい」と遺した寄附を基に、1972年佐藤記念館が竣工しました。学生食堂やクラブの部室がある建物は今でも学生に利用されています。入り口には佐藤を称える銘版があり、「とくに学生に対する深い理解と愛情は人びとの信頼と尊敬を一身に集めた。」と記されています。

佐藤の活躍は『東京女子医科大学八十年史』や『東京女子医科大学百年史』にも書かれています。これらの書籍は本学図書館でご覧いただけます。大学史料室では、小学校時代の賞状類や位記、吉岡正明教授(細菌学)がドイツ留学時に佐藤への土産として持ち帰った顕微鏡などを保管しています。





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