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2015年12月15日私にしかできない政策を 薬師寺 みちよ
医療の現場に携わった経験を生かし
私にしかできない政策を提案していきたい


東京女子医科大学出身の薬師寺みちよさんは、昨年7月の参議院議員選挙で愛知県選挙区から立候補し、初当選を果たした。医師として政治家として、どのようなテーマに取り組んでいるのかを伺った。


薬師寺 みちよ(参議院議員)



<最も衝撃的だった解剖実習>

 私は小さい頃から父(前久留米大学学長・医学博士の薬師寺道明氏)に医師になるように育てられ、高校(福岡県立修猷館高校)も大学(東京女子医科大学)も父に勧められたところへ進学しました。修猷館高校は出身者に医学界で活躍する人が多く、私が在学していた当時は男子生徒が圧倒的でした。その中で、男性的な質実剛健の気風を身につけたと思います。
 一方、女子医大は右も左も前も後ろも女性ばかり。修猷館とのあまりの落差に、最初のうちは「場違いなところに来ちゃったかな」と思い、本気で大学を辞めようと考えたほどです。でも、それまで女性としての自分を見つめたことがなかったこともあり、ならば6年間、女子医大で女性の魅力を高めていこうと気を取り直しました。
 女子医大時代に最も衝撃的だったのは、やはり解剖実習です。神聖な場で、自分たちが直接ご遺体にメスを入れながら学ぶということの衝撃は、筆舌に尽くしがたいものでした。他の医大では男子学生がメスを入れ、女子学生はそれを見ているケースが多いと思います。でも、女子医大ではだれもが手を下さなければなりません。
 男性に頼ることなく、女性としての特性を生かしながら積極的・主体的に問題解決を図っていかなければならないというスピリットが、解剖実習を通じて養われたと思います。また女性医師としてやっていくなら、やはり女子医大で学ぶしかないと確信させられたのも解剖実習でした。


 <緩和医療の中から生じた疑問>

 女子医大を卒業後、医師となった私はがん患者を受け持つ機会が多く、何度も看取りを経験しました。そこで、がん医療の第一線を学ぶべく国立がんセンターへ通いました。そこで見えてきたのは、「Cure(治療)」はあっても「Care(ケア)」がないということでした。また、女性として妊娠・出産を考えながら自分の立ち位置をどこに置いて学んでいけばいいのかと思い悩むことがありました。
 そうしたときに患者様から求められたのが、女性としての細やかな心遣いでした。ドクターではあるものの、ある場面では娘となり、妻となり、母となる。多くの顔を持ちながら患者様に接することができるのが自分だと分かったのです。それを患者様から教えていただき、それが自分の持ち味なのだと思い、緩和医療の世界に飛び込みました。そして、ドクターとしての軸足はずらすことなく、看護師をはじめとする医療スタッフとの連携によって看取りを行うマネージャー的な役割を目指すべきだと考えるようになりました。
 そうした中で、患者様が苦しんでいるのになぜ看護師はドクターを呼ぶことしかできないのか、薬を出すことができないのか、といった疑問を持ちはじめました。法律がそうなっているとはいえ、現場にそぐわないのであれば政策自体が間違っているのではないか。そう思って、今度は政策決定までのプロセスを学ぶべく九州大学大学院で医療経営・管理学を専攻しました。


<視野が狭くては医療政策を語れない>

 そのときにたまたま、新聞で構造改革特区評価委員を公募していることを知り、「医療政策改革論」という論文とともに応募したところ、委員に選出されたのです。
 委員会ではまず、お役所言葉に慣れるのが大変でした。それだけで2~3年を要したほどです。特区制度は規制改革や地方分権への足がかりとなります。その必要性を訴えても、所管省庁の人たちの「前例がないから」という言葉で退けられてしまう。前例がないからこそ改革すべきなのに、固定概念がガチガチで現実に即した新しいものをつくり出そうという改革マインドがない。それが驚きでした。
 委員は7年間務めましたが、後半の4年間は専用の机を設けたらどうかといわれるほど特区室に通い詰めました。そして、厚労省だけでなく文科省や経産省の案件など、それまで自分が見聞きしなかったことも勉強することによって、いかに自分の視野が狭かったかということに気付かされました。医療政策を議論するには、単に医療という切り口からだけではなく、経済や財政、グローバル化した社会のことも分からなければ何も語れないということを痛感しました。


<医療の産業化を図り世界へ発信>

 もう一つ気付かされたことがあります。ある案件を議論しているとき、「いくら熱心に議論しても、内閣や国会に提出していく過程でつぶすこともできる」といったニュアンスのことを官僚からいわれたのです。結局、国会で1票を投じるという行為ができる立場でなければ、政策を変えることはできないということを教えられたわけです。それが政治家を目指すきっかけとなりました。医療現場で感じた疑問を解決しようといろいろな道を歩んできたら、永田町にたどり着いていたということです。
 社会保障制度改革を推進せざるをえない状況となり、厚労省も医療法の改正に取り組む姿勢を見せている中で、医療提供体制をどのように変革していくかが私の仕事だと思っています。そのためには、厚労省と議論しながら、実行可能な政策を提供するというスタンスで、医療制度の整備に着手していきたいと考えています。今までいろいろなチャンスをいただき、そこで得たものを生かしながら、私にしかできない政策を提案していければ本望です。
 日本は世界一の健康長寿国です。これは国民一人ひとりの教育レベルの高さも関係していると思います。また、日本の医療レベルがまだ低かった時代に、日本人の手によって内視鏡が開発されました。そういうスピリットが日本人にはありますので、医療現場のニーズに合ったものを創意工夫の中からもっともっとつくり出せるのではないでしょうか。そして医療を産業化し、世界に発信していくべきだと思います。
 日本の医療は海外との交流が乏しいためガラパゴス化してしまい、検査づけ・薬剤づけの中で失ったものも少なくありません。その反面、貴重なデータも多く抱えているはずです。それらの中には、長寿国・超高齢化先進国として世界に売り出していけるものが必ずあるはずです。そのデータベースを構築していくうえでも、政治の果たす役割は大きいと思っています。